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パブリック女神
「ねぇ、一禾」
「うん?」
その子の側は特別良い匂いがした。女の子の側はそれ特有の良い匂いがするものだと、相場が決まっている。染はこの匂いを知らないのだ、御目出度いことに。そして多分、一生知ることはないのだ、一禾は思っている。良い匂いがする女の子が、自分の武器である胸元をざっくり開けて、一禾の隣に座って、実に自然な動作で二の腕を寄せてくる。それに知らない振りをして、目の前のコーヒーにミルクを注ぐのに注意を奪われている風を装う。いつもなら一禾はコーヒーにミルクなど入れない。
「三ヶ月くらい前の奴かなぁ、『オペラ』見た?」
「・・・ううん、どうしたの?」
「見てないの?ホラぁ、氷川了以が表紙の奴よ」
「あぁ・・・何かコンビニで見かけたなぁ・・・」
もっと色気のある話題かと思ったら、同じ大学の可愛いが頭の悪そうな女はそう言って唇を尖らせる。一禾はそれにも知らないふりの延長をなぜかしてしまい、どうしてかと胸中に答えを探すが、自分でも良く分からなかった。そして彼女、麻里が突然そんなことを自分に振ってきたその真意も良く分からなかった。誰か格好良いモデルでも居たのだろうか、そんな頭の悪そうな会話に付き合うのは悪いが御免である。一禾はそこに自分の興味も利益も見出せない限り、それに付き合うなんて選択をまさかしない。
『オペラ』は株式会社efが監修を務める男性向けのファッション雑誌だ。いつも表紙に話題の芸能人が陣取っていることで話題性も高く、女の子がそれを手にする機会も多いらしい。書店やコンビニで他の雑誌に混ざってその白い表紙を良く見かけるから、そういうものに一切興味が無い一禾も、流石に名前は聞いたことがあった。それにしても、講義がひとつ休講になったからといって、滅多に来ないカフェテラスになんか好奇心のまま出向いてしまった自らの選択を恨む。ここでこんな風にどうにもならない女に捕まっている余裕がまさかあるのなら、期限の迫るレポートの推敲でもしたい。
「それにね、黒川くん載ってたの」
「・・・―――」
ミルクを入れたせいでいつもより随分と甘いコーヒーに味覚が可笑しいのか、何も感知しない。一瞬ショートした脳内は、次の一瞬で復旧作業をはじめる。麻里が不思議そうな顔をしてこちらを覗きこんでくる。それはもしかしたら試しているのか、一禾はごくりとコーヒーを飲み下した。喉を熱いものが降りていく感覚がしたが、それがコーヒーの強い匂いを放っているのは確実なのに、何故か何の味もしないのだ。一禾は眉間に手をやって、ぐるぐると回る三ヶ月前のことを思い出していた。
確かefのチーフプロデューサーか何かだったと思うが、一禾のパトロンの一人である諒子は、そんなに有名な雑誌じゃないから、大丈夫よ、一回出てみない、と言っていたはずだ、間違いなく。その言葉を鵜呑みにした自分自身に我ながら腹が立つが、今更後悔しても遅いのは良く分かっていた。染をけしかけたのは紛れもなく一禾自身なのだから、震える指先を無視したままぎゅっと握って、一禾は考えた。如何考えても三ヶ月ほど前、自分が本屋に買いに走ったあの雑誌の名前は『オペラ』だった。そこでどうして気が付かなかったのか。
「・・・気のせいじゃないかな」
「えー、違うもん。今度持ってきても良いよ」
「あぁー・・・うん」
「信じてないでしょ、ホントだもん。しかも結構ページあったの、凄くない?あの『オペラ』だよ?」
「・・・そんなに凄いかな」
興奮気味に声を大きくする麻里に辟易して一禾は溜め息を吐きながら、半ば本心を柔らかく表現する。あんなものにほいほいと載せてしまって、やっぱり不味かったかと今更だが後悔している。大学の顔見知り連中がこんな風に言うのはまだ許せる範囲だが、それこそ町を歩いていて指されかねないようなことになってはいけない。それでなくとも、あんまり頻繁に人ごみには出かけない彼ではあるが、それでなくても染と一緒に歩いていると、じろじろと無遠慮な視線に晒されることが多いのだ。
「凄いよ。ねー、今度黒川くんに聞いといて。一禾仲良いじゃん」
「・・・うーん・・・」
「でも変だよね、黒川くんって。超美人なのにさ、女の子と喋っているとことか見たことないし。彼女居るのかな」
「・・・」
「私もさ、声かけてみようとか思うんだけど、いつも笹倉に邪魔されんの、アイツマジ何様って感じじゃない?一禾今度さ、ご飯一緒に食べようよ、黒川くんも呼んでさ、ね、それ凄い良くない?」
それににこりと笑って、勿論一禾に承諾する気はさらさらない。仲が良いとは随分な言い草ではないかと、それに少し腹を立てていたくらいだ。後半は完全に聞き流している。何様はお前だ、その汚い声で染の気を引こうなどと馬鹿げている。残ったコーヒーを飲み干して、一禾はおもむろに席を立った。今日は講義が少ないせいか、肩にかけた鞄の中身が軽くてそれには助かっている。割りと生徒の少ないカフェテリアのガラスの扉が、自動で開くのを潜り、きっと自分はもう二度と此処には訪れないだろうことを、一禾はそうして悟る。
「私の友達黒川くんと同じゼミらしいんだけど、いつも全然喋らないんだって」
「ふーん・・・」
「ねぇ、もしかして黒川くんって大人しいの?一禾と友達なんだからもっと明るい感じなのかなって思ってたんだけど」
「・・・」
どうしてこの女はついてきているのか、そもそも何の話に付き合っていたのか、一禾は思い出せなくてそれを表情に出さないようにするのに背一杯だった。気を遣い過ぎていると自分でも思う。こんな女子学生のひとりやふたり、辛辣な言葉で振り払っても、どうなる自分では無いという自負もある。しかし一禾はそれが出来ない。そうすることが出来れば楽だと知っている、もっと言えば、彼女のために多少厳しいことを言っても、そうすべきだと思っている。しかし出来ない。根本的なところで一禾は、結局人間に甘く出来ている。特に自分に好意を寄せているだろう相手には、何故かその手を振り払うことは出来ずに、面倒臭いと思っても気付けは柔らかく笑んでいる。今日のそれの延長に過ぎなかった。
「そんなに黒川が好き?」
「・・・え?」
「だってさっきから黒川の話ばっかり、そんなに好きなの?」
「・・・だって皆言ってるよ、黒川くん、カッコ良いって・・・」
「皆とかどうでも良いなぁ、俺は麻里の話を聞いているんだけど」
「何で、何か、一禾怒ってない?」
「怒ってるよ」
「何で?私変なこと言ったかな」
「他の男のことなんて、褒めて欲しくない」
「え?」
「嘘でも良いからもう少し、俺にも興味持って欲しいな」
どうしてこんな風に軽々しく、思ってもいないことをぺらぺらと唇は勝手なことを喋るのか、一禾には分からない。気付いたらいつもこうだっただけだ。驚いたような麻里の顔が赤く染まって、ややあってから強引に視線をずらしそれは靴の先へ向く。可愛らしいことと、白々しく頭で思いながらも、一禾はその顔の筋肉を決して崩さない。染に変な期待を持たれて、変な風にちょっかいをかけられるのは御免である、それならば代わりに自らが人柱になる。それくらいに一禾は思っているのに、思っているだけで、何だかいつも虚しかった。顔をゆっくり上げて決定的な言葉を吐く女の子に何故笑っているのか、もう自分でも良く分からなくて、喉を掻き毟りたい衝動に駆られる。だけど一禾は一片、冷静に分かっている。
「・・・一禾」
それが唯一の、あの子を守る方法だ。ならばその何と容易いことだろう。
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