118 / 302

この手を離せない

「随分格を落とされているんですね」 いつものように狭い部屋で煙草を燻らせていた唯は、不意の来客に振り返った。この時間帯生徒が来るとなると、部活での怪我が大半で特別珍しいことではなかったが、その時振り返った唯の視界に立っていたのは生徒ではなく、見て高級品のそれだと分かるセンスの良いスーツを身に纏った、文句なしに美しいがどこか胡散臭い微笑を湛える白鳥夏衣だった。どうしてこの男がここに居るのか、唯には良く分からない。理解出来ないことと数字で示せないことは嫌いだった。鬱陶しそうに見えたのか、夏衣は唯の視界で酷く人の良さそうな笑みを浮かべて、親愛のつもりなのか此方にひらひらと手を振った。 「・・・何でアンタがここに居るんだ」 「諸事情でね、ちょっと寄らせて貰ったんですよ、先生」 土足厳禁だというのに、夏衣は黒のフォーマルシューズでつるつるに磨き上げられた板目の床を踏んで、座り心地の悪い椅子に座ったままの唯のほうにゆっくりと近付いてきた。センターが清潔なのは唯のせいではない。唯は割りと潔癖症だったが、床を掃除しているのはここの生徒である。生徒たちはぶつぶつ文句を言いながらでも、一体何の義務感に背中を押されているのか知らないが、なぜか良く働いてくれている。だから唯はその時床が汚れてしまうことばかりを、変に危惧していた。目の前の男の真意など、どうでも良かった。昔から夏衣のことは良く分からない。そして良く分かりたいとも思っていない。 「先生が保健室なんかで働いているとは、驚きですよ」 「健康管理センターだ」 「大学病院はどうなさったんですか、お辞めになったんですか」 「・・・諸事情で」 夏衣の事情など知らない。別れてからもう会うこともないと思った。会うことがないと思ったあの時の胸が締め付けられるような安堵感を、目の前で美しく微笑む男が理解しているとはとても思えなかった。夏衣のことは良く分からないし、兎角関わりたくないと思っている。それなのに夏衣は何故か、何の前触れも見せずに突然やって来て、物珍しいものなど何も置いていないのに、何故か楽しそうに薬品臭いセンターの中を物色している。本来ならば引き止めて追い出すべきなのだろうが、唯は夏衣のことが苦手だった。何を考えているのか良く分からないところもそうだし、何故かこちらを見下したような目を、時々するのも気に食わなかった。しかし夏衣には半面感謝していることもあるのだ、だから唯は大きく出られなくて黙っている。 「それはどんな事情なんです?」 「・・・どうしてアンタにそんなこと言わなきゃならない」 「だって気になるじゃないですか、先生はそれが目標で誇りにしていたんでしょう」 「・・・」 「それを容易く捨てるなんて、一体先生に何があったというのでしょう」 「・・・―――」 どこか芝居がかった口調と仕草で、夏衣は唯に白状を促してくる。唯はそれに分かり易く溜め息を吐いて、お前の言い成りになどなるものか、と再三胸中で繰り返す。そして綺麗にそれを知らないふりをして、先日纏めたばかりの青いファイルを取り出し、汚い机の上に広げてそれを見入っているふりをする。唯が一向に口を割らないことに、流石に夏衣も諦めたのか薬品棚に顔を突っ込んでいたのを、きちんと扉を閉め、くるりとこちらに向き直った。唯の右手にはまだ煙草が挟まっている。それが自分の吸っているものと違うことくらい夏衣には分かったが、かといって大して銘柄に拘泥しているわけではない。一本くれと言ったらこの人間は容易く自分のそれを渡すのだろうかと考えながら、夏衣は下唇を舐める。 「別に捨ててきたわけじゃない」 「でも退職なさったんでしょう?」 「・・・」 「色んなところからお声がかかっていたでしょう、先生ほどのお方なら」 「・・・別に、詰まらない権力抗争に嫌気が差しただけだ」 夏衣は何も知らない、何も知らないはずだと思いながら、唯はそれとは別のベクトルにただ背筋が寒い。男は時々何もかも分かり切った顔で、唯の隠した目の奥を暴こうと手を伸ばしてくる。それも一番汚らしいやり方で、如何してそんなに腹の内は真っ黒なのに、夏衣の顔にあからさまな意図を含んで貼り付けられたその表情は、清々しいほど爽やかなのだろう。唯には理解出来ない。嫌悪をわざと滲ませた視線の先で、夏衣は何か白っぽい瓶の蓋を勝手に開けているところだった。此方に注意がないのも計算づくではないかと唯に疑わせるほど、それは出来過ぎた背中だった。唯はそれを見ながら溜め息を吐いた、この距離ではきっと夏衣にも聞こえていただろう。 「会いに来れば良いんですよ」 「・・・」 「何を恥ずかしがっているのか知りませんけど、会いたいなら会いに来れば良いのです」 「何言ってんだ」 「先生の気持ちを代弁して差し上げているのです。それともそんな勇気はありませんか」 「・・・―――」 人の気持ちを勝手に踏み荒らして、代弁して差し上げているとは傲慢なことだと唯は思う他なかったが、それには何も言えなかった。もしかしたら、夏衣のそれが核心を突いていたせいなのかもしれない。自分でもまさかと思うが、そういうことは往々にして起こり易いことも知っている。苛々した気分のまま夏衣に目をやると、そこで夏衣は実にそれらしく、白々しいほど美しい微笑を浮かべて立っていた。それに憤慨した気持ちを逆撫ででもされている気分だった。夏衣はそういうところがある。夏衣のことは良く分からないが、この男は人が不幸になるのをただ喜んで見ているだけだ。なんという悪趣味、舌打ちしたい気持ちばかりが先走って、唯はフィルターを強く噛んで気持ちを紛らわせることに必死だ。 「もう会うつもりはない。言っただろ」 「そうですか、それはとても残念です」 全くそうは思っていない顔で、夏衣はそう言ってのけた。感謝している、夏衣には感謝している面もあるが、その奇妙さに唯は辟易している。会いたくないのはお前も同じだと、そのお綺麗な顔に吐き捨ててやりたかった。結局唯はそういう美貌に呪われていて、そういう美貌を呪っている。そして夏衣は物知り顔で、何もかも知ったように時々唯より高いところに立ってこちらを侮蔑の目で見下ろしている。 「先生が俺のことをどう思っているか分かりませんけど」 「俺は結構先生のこと気に入っているんですよ」 「先生はホラ、とても聡明であられるし、それに・・・―――」 嫌な予感がした。気付いたら夏衣は、座っている唯のすぐ目の前にいた。平常から感情を表に出すことを苦手にしている唯の動揺は、表面に形としては全く浮いて出てこなかったが、夏衣にはそれすらも見透かされていそうで、それは気味悪くまた空恐ろしい。全く代わり映えのしない、しかしそれでも完全なバランスの上に成り立つ微笑を夏衣は深くして、そっと唯の白衣のかかっている肩に手を置いた。そこから感じられるのは夏衣がこちらに意図的にかけた体重のみで、他のものは温度も何も感じ取れなかった。力の抜けた唇から煙草が落ちそうになったのを、夏衣は器用に指で掬って、唯が何も言わないことを良いことに、それを唇に挟んだ。途端に背筋を撫でられたような、奇妙な寒気が唯の体を巡った。それをも知り尽くした表情のまま、夏衣は煙草を指で掴み唇から離すと、ふうと意図的に唯の顔目掛けて煙を吐き出した。 「先生は俺好みの美しい人ですから」 「・・・―――」 唯はそういう美貌に呪われていて、そういう美貌を呪っている。 吐き気を無理矢理抑えた口内が、瞬く内に胃酸の匂いで満たされた。

ともだちにシェアしよう!