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モラトリアム入院 Ⅰ

静かな休日だった。完全に昼まで眠ってしまっていた染が起きた時、いつも騒がしさが常であるホテルの中が、随分静寂に包まれていた。染は起き上がったベッドの上でゆっくり伸びをすると、そっとカーテンを開けた。そこから柔らかく光が差し込んでくる。夏が終わって秋が来て、その光に攻撃性をもう感じない。染はゆっくりとベッドから起き出して、欠伸をしながら余り綺麗とは言えない部屋を横切った。下にきっと一禾は居て、遅く起きた自分のために朝食兼昼食を用意してくれているに違いない。 しかし、そんな甘い考えを引き摺って染が談話室に降りて行くと、そこには制服姿の紅夜が居ただけだった。紅夜はこれから学校に行く用事でもあるのか、こちらに背を向けていつものスクール鞄の中を探っている。行っている学校柄のせいなのか、紅夜は割りと休日も学校に出向くことが多い。それに京義がついていっているのかいないのか、染は知らなかった。それにしても一禾が居ないことが気になる。もしかしたら自室に居るのかもしれない、と思いながらいつもは出入りしないキッチンに入るが、そこは綺麗に磨き上げられていて、人の気配がしなかった。嫌な予感がして紅夜のほうを見やると、先ほどまで探っていた鞄を丁度肩にかけているところだった。 「おはよ、染さん」 「・・・お、おぉ・・・」 「俺これから学校行くわ、後お願いな」 「・・・ちょ・・・」 紅夜は若干諦めたような表情で、きっとこれは昼まで眠っていた染の怠惰を責めている表情なのだろうが、淡々とそこまで言うと行ってしまおうとする。思わずその背中を呼び止めると、紅夜は簡単にその足を止めて振り返ってくれた。それに僅かながらほっとする。目覚めた時の清々しかったはずの静けさは、いつの間にか染の心内をざらざらした感触になって撫でていた。 「・・・一禾は?」 「あぁ、一禾さんなら出かけたで」 「・・・え・・・」 やはりこの嫌な感じはそのせいだったのか、染はそれに合点がいって勝手に青ざめる顔に手をやった。それを見て紅夜がまたやれやれといった風に首を振るのが分かった。出かけるなんて、一禾は昨日言っていなかったのに、と思わず言いそうになって、染はぐっと堪えた。最近一禾は余り外に出かけなくなっていた、そのせいで少し染は安堵し切っていた自分に気が付いた。 「それからナツさんも実家に帰るって、朝から出て行ったで」 「えぇ・・・じゃぁ誰も居ねぇんじゃん・・・」 「まぁ、京義がおるけど、寝とると思うからなぁ」 「・・・あぁ・・・」 「ほな、俺行くから」 淡々と紅夜は業務連絡のようにそう告げると、扉を押して出て行ってしまった。染は暫く呆然として誰も居ない談話室に裸足で立ち尽くしていた。一禾も夏衣も居ないなんて、一体どういうことなのだろう。一禾は兎も角、夏衣が実家と言って出て行くと、一ヶ月程度帰ってこないのが常であったし、一禾にしても何をしに出て行ったか分からないが、いつ帰ってくるのか分からない。何でもない用事だったら良いのにと思ったけれど、染にそれを知る術はなく、自分の怠惰を恨むしかなかった。 「・・・」 がらんとした談話室を眺めて、染はひとつ大きく溜め息を吐いた。今日が休日で助かった。この分では布団に包まってさえいれば、そのうちに夜が明け、明日がやってくるだろう。今日一日はこんな重たい気分のまま、誰かに会わなければならないこともない。それだけが僅かに救いのようにも思えた。そうして自身を落ち着かせると、急にお腹が減ってきて、染は普段触ることのない銀色の冷蔵庫の扉を開いた。中から冷気が漂ってきて、それが染の頬を冷やりと撫でる。その時だった。 「!」 起きた時にジャージのポケットに突っ込んだ携帯が、不意に音を立てた。染は慌ててそれを引きずり出すと、ぱちんと音を立てて開いた。携帯のデザインを選んだのは染だったが、契約手続きを行いに行ってくれたのは一禾である。あの時もかなり喧嘩したなぁと、それを見ると苦い思いがせり上がってくるのが、最近は少なくなってきたところだったが、その時はなぜか久しぶりに青臭い匂いが染の鼻を掠めて消えていった。ディスプレイ表示を確認すると案の定知らない番号、染は少し考えて、通話ボタンを押した。一禾が誰かの携帯からかけてくることは、早々無かったが、以前一度や二度はあったことを、染はいじらしいほどちゃんと覚えている。 「はい」 『あ、黒川さんの携帯?』 「・・・そ、そうです・・・けど・・・」 『あ、良かったー』 しかし、今日はどうも運に見放されている。電波の声は一禾のそれではなかった。やや高めの男の声で、景気良く喋る。何が良いのだ、此方は何も良くないのだと思いながら、無意識のうちに携帯を握った左手にじわりと汗をかく。相手が黒川と自分の名前を呼んでいるから、きっと知っている人なのだろうことは何となく分かったが、番号は染の知らない番号だった。それだけで充分染にとっては赤の他人である。あぁ、取らなければ良かった、良かったのにと胸中で呟くが、現実は無慈悲である。 『滝川です、久しぶりですね』 「・・・たきがわ・・・さん・・・」 『あれ、忘れちゃったんですか?ほらぁ、オペラの!』 「え・・・あ・・・ええと・・・」 『あ、思い出しました?』 曖昧なことを言いながら、染は必死に記憶を辿った。話の内容からバイトの時の人の誰かだということは辛うじて分かったが、あの時は人の名前や顔を覚えるような余裕が無かったので、言われてみればそんな人も居たような気もするが、居ないような気もする。ぐるぐると銀色の映像だけが頭の中を巡って、それははじめから存在しないもののように全く思い出せない。染が明確な答えを出さずとも、電話口の滝川は勝手に解釈して、早口に話題を進める。そのせいで結局滝沢なる人物の顔が頭に浮かんでこないまま、染は会話を続けることになった。 『今日学校お休みですよね?』 「あ・・・はい」 『この後用事とかあります?』 「・・・え・・・別に・・・」 『じゃぁちょっとスタジオまで来てください!是非会って欲しい人が居るんですよ』 「・・・え・・・」 とことん今日はついていない。すぐさま断わろうと思ったけれど、学校も休みで用事もないと言ってしまっている後である。他に一体何を言い訳にして良いのか分からないで、染はそう弱く反論するしか出来なかった。そして電話の向こうの滝沢は完全に、染のそれを反論としては受け取っていない。それどころか聞こえていたのかどうかも疑わしいような明るい口調のままで最後に言い放った。 『じゃ、すぐタクシー向かわせますんで!』 「・・・あ・・・」 そして電話は無常にも染に否定の言葉を呟かせる前に、ぶつりと切れた。流石に染も焦ったが。今すぐリダイヤルして、やっぱり無理ですなどと言う勇気がまさか有るはずもなく、携帯を握ったまま青ざめることしか出来なかった。相変わらず人気のないホテルの中は、異様とも思える静けさが漂っている。先刻まで布団の中で至福の時間を堪能していたのに、起きてみるとこれだから全く嫌にもなる。染はひとりで大きく溜め息を吐いたが、それを聞くものもそれに答えるものも、部屋の中には居らず、それは余計に染を虚しさに追いやる結果になった。

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