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モラトリアム入院 Ⅱ
会って欲しい人なんて呼ばれる人間に、さっぱり会いたい気持ちを持ち合わせていないまま、染は仕方なくホテルを後にする。それどころか、今日は顔見知りの人間に会うのも億劫な日なのだ。それなのにどうして自分はタクシーなどに乗っているのだろうと、妙に香水臭い後部座席に凭れながら、染は膝の上に乗せた携帯を唯一の安定剤のつもりで弄っていた。もしかしたら一禾は少し買い物に出かけただけなのかもしれない。後少し経てば帰って来たのかもしれない、そう思うと遣り切れなくて溜め息ばかりが口から漏れる。
暫くして灰色の建物の前にタクシーは止まった。染がゆっくり降りていると、扉の前に誰か立っているのが見えた。その童顔には見覚えがあった。あぁ、このひとが滝沢だったのか、と染が半ば感心するように思っているうちに、滝沢はタクシーの運転手に何事か呟き、機敏な動作でお金を支払っていた。タクシーが去っていくと、くるりと滝沢がこちらに向き直って、にこりと頬を緩めた。この男は自分に危害を加えようとしているのではない、頭では分かっているのに、染はどくどくと心臓が脈打つのを耳の側で聞いていた。
「すいません、いきなり呼び出したりして、さ、中どうぞ」
「あ・・・どうも・・・」
建物の中は一度入ったことがあったから、灰色のビルはそこまで染を心労させることはなかった。前を滝沢が歩き、染はそれに習って後ろからゆっくりついてゆく。階段を下りている途中に地下のスタジオの様子が見えるのだが、そこで何度かフラッシュが光ったような気がしたので、今日も撮影をやっているのかと完全に部外者の気分でぼんやりとそれを見ていた。フロアまで完全に降りると、白い背景の中に黒いコートを着た背の高い男の人が立っているのが見えた。染は遠目から目を凝らしてみるが、それが一体誰であるのか判別出来なかった。染をここに連れてきた滝沢も、暫くはフロアの壁際に染を誘導し自分は隣に立ち、それを何も言わずに眺めていた。ややあって撮影に一段落ついたのか、カメラマンの男が手を挙げ、一旦休憩と声が聞こえてきた。
「如何でした、オペラ」
「・・・え、と・・・あの」
「結構凄かったでしょ、俺が推薦したんですよ。黒川さん使って貰うように」
「・・・あ、有難う御座います・・・」
「いえいえ」
最初の打ち合わせの段階では、染は1ページ載るか載らないか程度の仕事だと聞いていた。それならばと引き受けたのも少しあったが、一禾が買ってきた『オペラ』では他の名のあるモデルと同等の扱いをされており、染はこんな話のはずじゃなかったのにと思ったものだった。しかしそんなことを大声で言えるような性格では勿論なかったわけで、真相を聞きながら本当は迷惑だと思ったが、誇らしそうな滝沢の話しぶりに、まさか本意を言えるはずもなく、染は口の先だけで分かり易い単純な感謝を示した。
「あ、会わせたい人なんですけどね」
「・・・はぁ」
「ちょっと待ってください、呼んで来ますから」
「・・・」
だから会いたくないし、載せて欲しくなかったのだと、染は言えない。言えずにただ愛想笑いを浮かべて、それに肯定とも否定とも取れるように曖昧に返答をするだけしか出来ない。いつからこうなったのだろうと考えた時点ですでに染は出来上がっており、それ以前のそうではない自分を上手く思い描けないせいで、自分とはそういうものであると半ば強制的に認識している。しかし滝沢はやはり目の前のことしか見えていないのか、染の適当な返事には何も言わずに、ふらりと背中をつけていた壁を離れて、小走りでどこかへ行ってしまった。滝沢が居なくなると染の世界は一気に狭まる。周りの人間は知らないひとばかりで、どの人も忙しなくしているように見えて、それは余計に染がそこに孤立していると錯覚させることになった。
「黒川さん!」
「・・・ぁ」
ややあって滝沢が帰って来た。その後ろにグレイのスーツを身に纏った男がひとり立っていた。会わせたい人間とはこれだろうか、染は無遠慮にならない程度にその人を観察しながら、ぼんやりと思った。男はそれに人の良さそうな笑顔をこちらに向けていた。『オペラ』のモデルにしては少々異質な雰囲気を纏っていたが、顔の整い方はまさにモデルのそれと言っても過言ではないように思えた。そしてそのセンスの良いグレイのスーツからは、下品にならない程度の高級感が漂っており、男をどこか至高のものにしていた。そういえば染の周りの誰とも知らない人たちも、ちらちらと男のほうに視線をやっているような気がする。
「こちら、鏡利 さん」
「こんにちは」
「・・・どうも・・・」
完全に年下に話すやり方で鏡利は微笑み、染はそれに戸惑いながら口の中でぼそぼそと呼応した。鏡利はそれに気分を害した風ではなく、何度か確かめるように染のほうを見つめると頷いていた。滝沢の知り合いということは、きっと『オペラ』関係の人間だろうことは流石に分かったが、にこにこと愛想良く此方に微笑みかけてくるこの男が一体何物なのか、染には見当のつけようもなかった。暫く鏡利が何も言わないで染のことをじっと見ているので、染は困惑したまま助けを求めるように、隣に立つ滝沢にちらりと視線をやった。すると滝沢は何故かそれに可笑しそうに笑い、鏡利の右腕をぽんぽんと叩いた。
「鏡利さん、見過ぎですよ」
「あ、御免ね。でも、この間紙面で見させて貰ったけど、君本当綺麗だねぇ・・・」
「でしょう、凄いでしょう」
「・・・え・・・あ・・・」
「ちょっと触っても良い?」
「・・・―――」
此方が承諾する前に、鏡利の指先がすすっとごく自然な動作で染の頬を滑った。何なのだと染はそれに何も言えないで、勿論指先を拒否することも出来ず、緊張した背筋を真っ直ぐ伸ばしたまま、そこに固まってしまった。しかし鏡利はお構いなしに染の頬を何度か撫でると、不意に顎を掴んでぐいと引き上げた。一体何をされているのか分からないまま、染は抵抗出来ずに首をそれに合わせて動かす。その間にもじろじろと全く遠慮なく、鏡利は染の顔周辺を何か調べるように眺めていた。暫くして鏡利の指が染の皮膚から離れて、染は何が始まっていたのか不明だったが、それでも終わったことに安堵し、ゆっくり首を戻した。
「・・・どこにも繋ぎ目がないねぇ・・・」
「当たり前ですよ、何言ってんですか、鏡利さん!」
「いやぁだってさ・・・」
「・・・え、・・・な・・・何だったん・・・ですか」
暫く無理な体勢を取らされたせいで痛む首筋を押えながら、染はここに来てからやっとまともに発言した。それくらいに鏡利の行動は意味不明だったし、それについての感想も染には理解出来ないものだった。しかしそれに鏡利は答えるつもりがないのか、口元をにやりと意地悪く歪めただけだった。ますます混乱する染を見かねて、滝沢がひとつ溜め息を吐いたのが分かった。それに鏡利が些か心外そうな顔をする。
「黒川さん御免ね。いい加減にして下さい、鏡利さん」
「だって不思議じゃないか。こんなに綺麗なんだよ、繋ぎ目のひとつやふたつ、あったっておかしくない」
「・・・繋ぎ目・・・?」
「有りませんよ。そんなの」
「うん、今見たら無かった。だから驚いているんだよ」
満足そうに頷いた鏡利に、呆れたように滝沢が首を振った。その頃になってもまだ染は目の前の状況が良く分からず、ぽかんとしていた。それにようやく気付いてくれたのか、鏡利はその表情をもう一度人好きのする笑顔に戻して、放っておくと今すぐにでも涙目になりそうな染に向かって言った。
「株式会社efの代表取締役、鏡利です。改めてよろしく、黒川染くん」
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