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モラトリアム入院 Ⅲ

「・・・だいひょう・・・とりしま・・・」 「まぁ、平たく言うと社長だよね」 「御免ね、黒川さん。鏡利さんがどうしてもって言うから、無理に来て貰っちゃって」 『オペラ』を監修しているのは株式会社efだが、efは決して出版社というわけではない。むしろ男性向けファッションブランドとしての地位のほうが、会社の中では大きな枠を占めている。『オペラ』はefが新作披露のひとつの場所としてただ監修しているだけなのだ。そんな内部事情など染は全く知らなかったが、その時続けざまに起こる目の前の事態に混乱しながら、合点がいっていたこともある。鏡利のその隠し切れない雰囲気の良さというものは、そういう肩書きから漏れ出すものなのかもしれない。勿論それだけでは決してないと思うが、先ほどから鏡利に注がれる視線には、常に尊敬の念が付き纏っている。この若さであの大企業の社長をやっているのだ、ようやくそこに考えが至ると、染はひとつ感嘆の声を漏らした。 「・・・そうだったん・・・ですか」 「うん、黒川くんとはこれからも良いお付き合いが出来ると良いな」 「え?」 「期待しているからね」 「・・・」 鏡利は人の良さそうな笑みを浮かべたまま意味深なことを言って、ぼんやり突っ立ったままの染の肩をぽんぽんと叩いた。そしてそれに聞き返そうとして染がぐずぐずしているうちに、黒服のどう見てもスタッフではない男と連れ立って、手を振りながらスタジオから出て行ってしまった。残された染は良く分からない頭のまま、ちらりと隣に立つ滝沢に目を向けた。スタジオでは撮影が再開されるのか、俄かに騒がしくなり、長身のモデルの子が白く光って見える背景の前で、所用無さそうにぼんやりと準備を待っていた。その風景には鏡利が去ってしまった後の、緊張感の抜けた雰囲気が僅かながら漂っていた。 「鏡利さん、どうだった?」 「・・・どう・・・?」 「俺ね、あのひと割と良い人だと思うんだ。俺なんか凄い下っ端のただのメイクなのに、全然気取らないで話してくれるし、優しいしね。まぁちょっと時々妙なこと言い出すのは悪い癖なんだけど」 「・・・」 「言っちゃ悪いけどあんまり偉い方には見えないしね」 フラッシュが焚かれ始めた撮影現場の側は、それとは対照的に酷く暗かった。滝沢もどこか気の抜けたような顔をして、先ほどよりは砕けた調子で腕を組みながら、職業柄なのか撮影風景から目を外さずに、今までと比べると幾分ゆっくりと落ち着いた調子でそう言った。確かに鏡利にはどこか人とは違う雰囲気があるが、それは決してこちらに尻込みさせるような、取っ付き難い類のものではなかった。染は滝沢のそれに確かにそうだと思ったけれど、この暗さでは頷いても見えないかもしれないし、それ以前に滝沢の目は染とは違うところを見ている。どうしたら良いのか分からなくて、染が黙っていると、ふいっと滝沢がこちらに視線を遣した。 「まぁ分かると思うけど、あのひと凄く忙しい人で」 「・・・あ、はい・・・」 「今回もさ、フランスから帰って来たばっかで、また後何日かしたら戻るらしいんだけど、前の『オペラ』ちゃんと見ていてくれたみたいでさ。帰国したら黒川さんに絶対会いたいって言っていたらしくて。会いたいから呼んでくれって、全く無茶苦茶な人だよ」 「・・・」 「ねぇ、これの意味って分かる?」 「・・・―――」 暗がりの中でこちらを向いている滝沢の目だけが、つるりと光っているような気がした。スタジオの中は人の気配とフラッシュの音と誰かの声で煩いのに、そこだけはいつの間にかぽつんと取り残されたような静けさの中にあった。染はそれに射抜かれて、堅い口をますます堅く閉じてしまう。それは多かれ少なかれ、染に期待する、染にプレッシャーを与える、そんな色を含んだ目だった。分からなかった。鏡利が言っていることも、滝沢が言っていることも、同じことだろうということは何故か分かるのに、それ以上は良く分からなかった。ただ目の奥が痛くて、気付くと粘膜が少し潤んでいた。 「黒川さん?」 「・・・―――」 それが分かったのか、瞬時に滝沢が顔色を変える。やはり出てくるべきではなかった。こんなところに出てくるべきではなかったと、染は黙ったままじりじりと足を後退させはじめた。何を勘違いしてやって来てしまったのだろう、本来こんなところは自分にとって一番縁遠い場所だ。それを一体何を思って、こんなところに居るのだろう。帰ってホテルに一禾が居なくてもいい。布団にさえ包まって暫くしたらきっと全て忘れて、また元に戻る。明日は学校に行きたくないが、行かなければきっと一禾に怒られる。いや、一禾はホテルに居ないのだから、怒る人は誰も居ない。だったら暫くホテルから出なくてもいい。ぐるぐると脳の中で偶像ばかりの思考が巡る。喉の奥がひゅっと音を立てて、いつの間にか視界が狭まった気がした。 「よぉ、染吉!」 「!」 しかしその時、じりじりと後退していた染は肩をぽんと叩かれて、前につんのめった。本格的に転ぶ前に、滝沢に支えられて何とか体制を立て直す。突然のことに滝沢も驚いているらしい。振り返るとそこには、少し罰の悪そうな顔をした竹下が立っていた。竹下は以前染がここで世話になった現場監督だった。染はそんな役職のことまできちんと覚えていたわけではなかったが、何となく偉い人だったというのは覚えていた。 「いやぁ、御免な。しかしお前細過ぎるぞ、ちゃんと食ってんのか?」 「・・・あ、いや、あの・・・」 「・・・何で、竹下さんここに・・・」 「何でってホラ、仕事だろう。どうだ、染吉、一枚撮ってくか」 「え・・・」 ばしばし音がするほど染の背中を景気良く竹下は叩きながら、はははと豪快に笑った。突然のことに驚いていたせいなのか、いつの間にか目の前は乾いて、渦を巻いていた思考も晴れていた。染はそれに気を取られて、暫くぼんやりとそれに適当に返事をするのも忘れて、竹下の口が動くのを何ともなしに見つめていた。すると滝沢が今日のことは聞いていなかったのだろう、訝しげな顔をしたまま染の腕を後ろから掴んで引っ張り、今度は肩を叩いている竹下から遠ざけた。 「聡里(サトリ)が着てない奴だったら何かあるだろ、その辺に」 「ちょっとそんな・・・勝手に良いんですか」 「良いだろ、染吉は何着ても似合うからな」 「そういう問題じゃないんですけど・・・」 しかしそれにはお構いなしに竹下は、ふたりをそこに残しすたすたと歩いて行ってしまった。そのままスタジオから出て行くのかと思ってその背中を見送っていると、不意に竹下がこちらを振り返って、にやりと笑ったような気がした。あ、と滝沢はすかさず思ったが、もう遅かった。 「佐藤くーん!何か、着てないのある?」 「あ、どうしたんですか、竹下さん」 「染、折角来てるから撮ってやろうと思って」 「ちょっと待ってくださーい」 染の居ないところで勝手に話は進んでいく。まだ承諾していないのに、どうしてここの人たちは皆挙って強引なのだろうと、染は溜め息を吐いて思ったが、少し強引なほうが染にとっては有り難かった。自分に任されると困るから、自分に選択権があると迷うから。誰かが誰かの意思によって、これが貴方の分だよとその手のひらに握らせてくれるほうが、幾分も安心出来る。だから染は何も言わなかった。尤も、口を挟む勇気などどこにもなかったけれど。

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