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モラトリアム入院 Ⅳ

結局竹下の申し出を断わることが出来ずに、染は新作のスプリングコートを用意された部屋で脱ぎながら、ひとつ溜め息を吐いた。一体何をやっているのだろう、一体何のためにこんなところに居るのだろう、先ほどからそのことばかりずっと考えているが、ひとつも分からない。やってくれと言われたら、もし自分なんかに期待を込めてそんなことを言う人が居たならば、染には断る選択肢がない。肯定も出来ないかわりに、否定も出来ない恨めしい臆病な心内。一体誰のことを責めたら良いのか分からなくて、何度も自己嫌悪に陥るのに、幾度か夜を跨げば全て無かったことに出来るのは、染の特技でもあった。 「黒川さーん」 染が下らない思考の輪廻に振り回されていると、不意に扉を叩く音がして、びくりと裸の背中が震えた。振り返ってもそこは、白い机と椅子が置いてあり、壁の一面だけが鏡になっていることさえ除けば、他はごく普通の部屋であるが、自分の良く知っているそことはかけ離れている。染が返事を迷っていると、もう一度扉が控え目に叩かれて、再度染の名前を呼ぶ声が、その向こう側から聞こえた。 「黒川さん?」 「・・・は、はい!」 今度は威勢よくそれに返事をし、染は慌てて自分の服を頭から被った。染が普段腕を通している服は、全て一禾が買って来たものである。染はそれがどういうものか良く分からず、ただ受け取ってそれを日々着ている。特別服に興味が無いというわけではないが、一度入った服屋の店員の接待に怯え、それきり疎遠になっているだけの話だ。染が苦手としているものは、そういうものの積み重ねなのである。染が服をきちんと着終わったのと同じくらいのタイミングで、扉が開かれ奥から滝沢が顔を覗かせた。 「着替え終わりました?」 「は、い」 「すいませんね、今日なんか、沢山無理言っちゃって」 「いえ、そんな・・・」 「お詫びにメシ奢りますよ、行きましょ」 仕事が終わってさっぱりとした顔をした滝沢は、また堅苦しい敬語に戻っていた。染はもう今すぐにでも帰りたいと思ったけれど、それには逆らうことが出来ない。気が付くと頷いていた。毎回それにはうんざりするが、その時滝沢が染の返答に嬉しそうににこりとしたのを見て、いつもより胸の奥は静かに凪いでいた。不思議だった、ここには染の不安をただ無遠慮に煽り立てるものしか存在していない。それにも拘らずいつもより染は冷静で、そして幾分落ち着いていた。そんな染の胸中を察するわけでなく、滝沢は車を回してきますからと丁寧に告げて、くるりと踵を返して扉の外に行ってしまった。 「・・・」 どうしてここに居るのだろう。どうしてひとりで居るのだろう。 滝沢は童顔な青年だったが、染よりも5つも年上であった。それでも業界では下っ端の方なんですよと頬を緩める滝沢の車の助手席に乗って、染は妙な緊張感と戦っていた。そういえば、誰かとこうしてふたりきりで出かけたことなどなかった。いつも一禾の助手席に乗って、そこですら震えていた。これは進歩なのか、染は薄くガラスに映る自分の顔を見ていた。見慣れてしまってそれに、もう何の感慨も浮かばない。皆が挙って言うように、染は自分の外見というものがそんなに人とは違うとは思っていない。いいや、思いたくないのだ。誰かと違うということは、それはただの恐怖でしかないことも知っている。 暫く車を走らせて、店に着いたときに染は思った。スタジオにも何人か女性のスタッフは居たが、染とは余り関わりの無いところで動いていたせいもあってか、それに然程心労することはなかったが、ここはそうではないだろう。無言で看板を見上げる染の背中をぐいぐい押して、それなのに滝沢は妙に楽しそうだったから、染はやはりそれには何も言えない。出迎えてくれた店員がまず女性だったのに悲鳴を上げそうになったが、滝沢が何やら知人ではないかと思うほど流暢にその子とは喋ってくれたので、染はほっとしてそれでも後ろでぶるぶる震えていた。席に案内されても、染はまだ心臓が煩く鳴っているのを耳の側で聞いていて、店員の女の子がマニュアル通りの接客をするのに、注意を向けているどころではなかった。ややあって店員の女の子は何かをなぞるような言いかたを止めて、完全に去って染の視界から存在が消えるまで、染はただ俯いて震える手をぎゅっと握っていた。 「・・・黒川さん・・・もしかして気分でも悪いですか・・・?」 「え、いや・・・あの・・・」 「凄い汗ですよ、それに・・・何だか目も潤んでるし・・・」 「あ・・・」 流石に気付いていたのか、滝沢が陽気だった顔を心痛そうに歪めて、ワックスの残っている染の前髪をそっと撫でた。本当のことを言うと、とても気分は悪かったし、今すぐにでも店を飛び出して、早く丸くなって眠りたかった。ここに染のことを知っているほかの誰かが一緒に居たら、そして間違いなくそうしていただろう。そこまで考えて染は気付いた。どうして今、そういう風にしないのか、ならないのか。ただ自分は一禾をはじめとするキヨや夏衣などといった周りの理解者というものに、甘えていただけなのではないか。気付いてそして愕然とした。何にも変わっていない自分という存在に、染はただ愕然とした。 「・・・大丈夫・・・です」 「ホントですか、何かやばそうですけど・・・」 「・・・ホントに、何ともないです・・・」 「・・・」 染は首を振った。だから首を振った。本当は帰って眠りたい、だけどそれは出来なかった。何故そうなのか自分でも良く分からない。唇をぎゅっと噛んで、震える指先を握りこんで、そんなに我慢してまで自分のしたいことが此処にあるのか、染には良く分からない。無理して笑うと滝沢は余計に訝しそうな顔をして、それに首を傾げた。やはり一禾のようには上手くいかないのだ。それでも良かった。 「なら良いんですけど、無理しないでくださいね」 「あ・・・はい」 「何でしょう、車酔いですかね。ご飯食べられます?」 「・・・駄目なんです」 「え?」 どうして赤の他人でもう二度と会わないと思うのに、染は自分がこの話を滝沢にしようとしているのか良く分からなかった。後から考えても成り行きが唐突で、その時滝沢が酷く驚いていたが、自分でも可笑しいと思う。気が動転しているのかもしれない。だからきっとこれはその延長だ。首から上が自棄に熱を持っていて、震える指で頬に触るとやたらとそれを冷たく感じるのだった。 「女の人が・・・昔ちょっとあってそれから・・・」 「・・・え、え?」 「そこに居るだけでなんかちょっと、気持ち悪くなって・・・」 「・・・は・・・ぁ・・・」 「触られたりすると・・・もっとなんか・・・拒絶反応が出ちゃって・・・」 「・・・あぁ・・・」 何と言うだろうと思ったけれど、染が伺うように滝沢のほうを見やると、滝沢は何かに感心しているように、ただそれに相槌を打って頷いていた。馬鹿にされるか、笑われるかもしれないと思ったけれど、滝沢はどちらもしなかった。どちらもしないで、時々短く言葉を漏らしながら、染の話を聞いていた。この話を他人にするのははじめてだった。キヨには一禾が説明してくれていたらしく、はじめて会った段階で、既にキヨは染の異常体質を知ってくれていた。どういうつもりなのだろうと、染は自分に問いかける。こんなことを話して、一体どうなるつもりなのだろう、分からない。気が付くと周りの喧騒から随分離れたところに、ふたりは肘を突いていた。

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