123 / 302

モラトリアム入院 Ⅴ

「御免ね、何か。俺何にも気付かなかった」 「・・・いえ・・・あの」 一頻り染の手短過ぎる説明を聞いた滝沢は、それを自身の中でどうやら咀嚼し終わった後、以外にも本質には何も触れないでふうとひとつ溜め息に似た息を吐いた。しかしそれに諦めは微塵も含まれていないことが、何故か染には確信的に分かったから、それには平常のように震顫しないで済みそうだった。そして滝沢は反省したように、また口調を砕けたものに戻してそう言った。そういうつもりで言ったのか、どういうつもりで話したのか、染は自分でも良く分からないうちにそれを否定していた。もしかしたらそうなのかもしれない。理解して欲しいと思ったのかもしれない、そしてその後の手厚い保護を無意識のうちに求めていたのかもしれない。そう思うと更に顔に血液が昇って、染は至らない自分の愚かな計画を恥じた。 「ここ、もっと個室みたいなところに変えて貰おうか?」 「いや、良いです、ここで良いです・・・全然・・・」 「そう、でもあんまり顔色良くないよ、黒川さん」 「・・・いや・・・大丈夫・・・です」 途切れる声は弱弱しく、全くと言って良いほど説得力を欠いている。滝沢は分かり易い心配を表情に浮かべて、決して目線を反らすことなくじっとこちらを見ている。しかしそこには染の察することの出来る限り、侮蔑や同情は浮かんでいなかった。そのことに、ただ単純とも思える要領で染は安堵していた。普通の人が自分の話を聞いたら一体如何思うのだろうと染は常々思っていたが、話す機会がまず中々にして訪れないので、それはいつも想像の域を逸脱しない仮想現実だったが、思った以上に酷いことにならずに、雰囲気をそのままに染の目の前の滝沢は、ただ危惧に眉間に皺を寄せているだけだ。 「そっか、そうだったのか」 「・・・はい」 「有難う、黒川さん」 「え?」 「俺なんかに話してくれて」 「・・・あ」 滝沢がそう言って酷く柔らかい方法で微笑むのに、染は思わずそう何とも判別し辛い息を漏らして相槌を打っていた。言っても良かったのだ、そのことで自分は何にも責められたりしないのだ、滝沢の笑顔は染にただ単にそう思わせた。気付けばそれに染も笑っていた。頬を緩ませるそれは、決して美しいものではなかったけれど、染はもっと綺麗に笑うことも出来るし、その方法も知っているけれど、その時間違いなく気持ちだけは真っ直ぐでそれ以上ないくらい本物だった。染はただそれに安堵し、そしてただ純粋に嬉しかった。滝沢のそれは優しく穏やかで、決して自分を拒否するものでも拒絶するものでもない。ただそのことさえ分かれば満足だった。 「大変だったね、今まで」 「え?」 「それで苦労したでしょう、沢山。黒川さん綺麗だし、女の子は放っとかないでしょ」 「・・・そうでも・・・無いです、結構」 「え、そうなの?意外」 今までは一禾が居てくれたから良かった。相当自分は意識的に守られていたのだと、染はその時痛感していた。それと同時にリフレインする。いつまでも染ちゃんの面倒は見られないのだからと言い放った、一禾の声が。染だって勿論分かっていた。頭では十二分に理解していた、理解しているつもりだった。しかしそれを耳にするまでは、それに自分で覆いをかけて見ないふりをしていたのだ。いつか来るその事実のことを、もしかしたらと思って、見ないふりをし続けていた。けれど一禾は簡単に染の目の前にそれを真実として広げて見せて、染がそれを眼前に如何することも出来ずに困惑している間に、きっとどこか遠いところへ行ってしまうのだろう。根拠は全くないが、そんな気がした。だからいつまでも一禾に頼って立っているわけにはいかないのだ、分かっている。これでも染はそのことを、理解しているつもりなのだ。 「でもそれって割りと好都合だよ」 「・・・え?」 先ほどまで神妙な顔をして頷いていたのに、突然今度は声を少し落として、滝沢は意地悪そうに笑いながら、染だけ聞こえるようにそうっと呟いた。しかし染は滝沢の言っている意味が良く分からなくて、一拍置いてからほぼ反射的に聞き返していた。 「この間さ、ウチのモデルの子が女の子連れているところ写真取られちゃって」 「・・・あぁ・・・」 「まぁ付き合うことは悪いことじゃないんだけど、仕事色々響いちゃうからって、今は自宅謹慎。これからって時に勿体無いよね」 「・・・」 「でも黒川さんなら、その心配は無いみたいだし?って、ポジティブに考えたら全然悪いことじゃないよ」 「・・・―――」 何でもないことのように自棄に明るくそう言って、滝沢は手を伸ばして染の肩をぽんぽんと叩いた。いつもそのことで周りに迷惑ばかりかけていたから、何とかしなくてはいけないのに、自分ではどうやっても何ともならない葛藤の中、染は長い間そこにずっと蹲っていた、蹲っていることしか出来なかった。結局自分はあの暗い部屋で膝を抱えて過ごしていた時と、本質的には何も変わっていないのかもしれないと、そんな時決まって染は思うのだった。だから全然悪いことではないと、その時滝沢がまるで何でもないことのように言ってくれたことに、染は拍子抜けしていた。不意に固まって黙りこくった染に、滝沢は何か不味いことでも言ったかと、少々染の問題というものを軽く見過ぎていたかもしれないとその笑顔を曇らせたが、次に何か滝沢がそれにフォローの言葉を入れるよりも早く、染の青い目から不意にぼろりと涙が零れて落ちた。 「え・・・黒川、さん?」 「すいま、せん・・・」 「や・・・あの・・・御免、何か・・・」 「・・・すいま、せん・・・嬉しく、て・・・」 「・・・―――」 「すいま・・・せん・・・」 その時は流石に、自分でも吃驚していた。意思とは無関係に流れる涙を乱暴な動作で拭って、染は息を繋げながらそう慌てて言った。本心だった。今度は滝沢が黙る番だった。泣くのは慣れている、染にとってはいつものことだった。もしかしたら昨日泣いた後だったかもしれない。だけど滝沢は大の大人がこんな風に取り乱したり、泣き出したりすることに殆どはじめて直面していた。染が大丈夫だと繰り返す度に、滝沢はそれを心配するよりも不思議だった。その時の染がとてもそんな風には勿論見えなかったからである。如何してそんな全然大丈夫そうなんかではない顔で、そんな分かり切ったことを、そんな風に一生懸命になって一体誰に釈明しているつもりなのだろう。そんな嘘をどうして平気で言えるのだろう、そう思っていた。何処かその影に危なげなものが付き纏っているのを、その時否応なく理解させられた。染のその余りに整い過ぎているとも思える容姿に付き纏っている翳りの正体をその時、おぼろげながら掴んだような気がした。 「俺思うんだけどさ」 「・・・は、い・・・」 「黒川さんって、凄い素直」 「・・・え?」 「綺麗なだけじゃ人を惹きつけるのにも限界があるよ。黒川さんは特別綺麗だけど、でも何か勿論だけどそれだけじゃないんだね」 「・・・」 「ねぇ、黒川さん。俺、黒川さんに聞いて欲しい話があるんだけど」 「・・・―――」 そうして滝沢がゆっくり目蓋を伏せる。

ともだちにシェアしよう!