124 / 302
モラトリアム入院 Ⅵ
若干薄暗くされた店内の照明の中で滝沢の目の粘膜がきらりと光って、染はそれに暗がりを見つけていた。先ほどスタジオの壁に凭れて何ともなしに視線をやったその先で、滝沢は同じような眼をしていた、確かに同じような目をしていたと思う。同じような目をして、染ではない一点の方向を見ていた。良くないことかもしれない、滝沢の表情からはもう先ほどまでの冗談の雰囲気は消えていた。だからこれから語られることは、おそらく滝沢にとって、そして染にとっても重要なことなのだろう。染はそれに身構えるように、ひとつ息を飲んだ。
「ウチにおいでよ、黒川さん」
「え?」
「本格的に、ウチで働かない?efの下でさ」
「・・・―――」
それが良くない話なのか、良い話なのか、瞬時に染は判断出来なかった。ただ砕けた調子ではあったが、滝沢がそれを本気で言っているのは良く分かった。テーブルの上には全く手のつけられていない水の入ったガラスのコップが乗せられていて、そこに浮かぶ氷が目に入った瞬間、喉がからからだったことに気付いた。そういえば、今日は起きてから食事らしい食事を取っていない。ホテルで夏衣の残していたクッキーをニ三枚口に入れたのと、スタジオの端に用意されていた緑茶を飲んだだけだ。揺ら揺らとその水面が揺れているように見えたが、もしかしたらそれは錯覚だったのかもしれない。握った手の内側ばかりに、嫌な汗の感触が消えない。
「駄目かな」
「いや、あの・・・―――」
困惑したまま染が黙っていると、滝沢が下から表情を伺うように覗き込んできた。その視線から逃れるように、染は椅子の上で半身を捻った。そんなことでは何ともならないことは分かっていたが、人の目にじっと見つめられるということに、兎角染は耐えられない。駄目かと聞かれたら、聞かれたらそれに返答は出来ない。染は肯定の言葉も、否定の言葉も持っていない。何故だろう、いつの間にか自分の意思というものを、周りに同調しようと余りに強く考える余り、軽々しく扱ってきて、問いかけられると困るのだ。自分で決めるとそこに責任が付き纏うから、誰のせいにも出来ないから、だから染は決定出来ない。
「これ、実は鏡利さんの提案なんだけど」
「・・・鏡利さん・・・」
「あの人が直接言うとホラ、社長だからって何か変な威圧感あるでしょ。だから俺に任せるって、そんなこと俺の仕事じゃないのにね、何言ってんだろ、あの人ホントに」
「・・・―――」
染があからさまに困っていることを汲んでくれているのか、滝沢は溜め息を吐きながらその回答を染にそれ以上執拗に要求するのは止めて、一変態度を緩和させるとやれやれと首を振った。しかし鏡利からの要望となると、染の前では滝沢の言葉ではあったが、それは確かに異様な威圧感を持って染の心に圧し掛かった。さぁっと血の気が引くのが自分でも分かった。返答を迷っている、何を迷う必要があるのかと染の冷静な部分は叫んでいる、だけど唇は動かない。染はその滝沢の要求に返答を迷っているのだ。そのことに気付いて、一体それはどういうことなのか、自分でも良く分からなくなった。
「黒川さん」
「・・・は、はい」
「嫌だったら断わって。無理強いするつもりは無いよ、俺も、鏡利さんもね」
「・・・はい・・・」
「でも凄く良い話だと思う。黒川さんが良い返事をくれると嬉しいけど・・・」
「・・・」
「あ、御免ね。これじゃ断わり辛いよね」
困るのだ、そういう風に、自分で決めろと言われると余計に。無理強いしてくれる方が、幾らかマシである。照れたように滝沢が笑って、そこは不意に静かになった。染は答えが見つけられない。勿論答えは出ている、自分にそんなことが出来ないことだって分かっている、そんなことは誰よりも染という人間と付き合ってきた自分自身が一番良く分かっている。だけどすぐに無理だとは言えなかった。どうしてなのだろう、染は良く分からない。膝の上で組んだ手の震顫がどんどん酷くなるばかりで、染には理解出来そうもない。染が顔色を更に悪くしていると、それに困ったように滝沢は笑って、表情を幾分か明るくした。
「黒川さんって、まだ大学生でしょ」
「あ・・・はい」
「卒業したらやりたいこととか、あるの?」
「・・・」
「だったらそっちを優先すべきだよ。俺が言うのもなんだけどね。黒川さんと一緒に働けたら楽しいって思うけど、でもそれは、黒川さんの決めることだよ」
「・・・―――」
静かだった。静かに滝沢は目を伏せて、諭すようにそう言った。染はそれに弾かれたように顔を上げて、滝沢のその神妙でいて優しい表情を見ていた。染は答えられない。それに答えはない。今は良かった、どんなに喚き散らしても、学校という場所がある限りは何もしていないのとは違うから、染は自分に言い訳が出来た。だけど卒業してしまったら、一体自分はどうするのだろう、どんな場所で、どうやって生きていくのだろう。考えたことがないわけではなかった。ただ余りにもそれは、染の想像を超えてしまっている。一禾でもキヨでも、夏衣でもない誰が、一体が染の手を引いてくれるのか、いつまで引いてくれるのか。答えは出ている。直視は出来ない。なぜならそれはただ単純な恐怖だからだ。だから染はそれに答えられない。
「良く考えて、返事は暫く待つから」
「・・・は、い」
「さ、じゃぁ何か頼もうか」
「・・・―――」
滝沢が一転笑顔で派手な印刷のメニューを取り上げる。染はそれに若干の安堵を覚えながら、そっと水のコップを取り上げた。
その頃ホテルでは、学校から帰って来た格好のまま、紅夜がダイニングテーブルに座って夕食を待っていた。京義はいつの間に起きたのか、今まで眠っていたのか、判別し辛いがどちらにしてもいつもの眠気を伴って、ソファーに横になって何故か自棄に熱心に洋画劇場を見ている。本来ならここに夏衣と染が居る時刻だったが、今日はどうしたことかそのどちらも不在で、その代わりに昼間出かけていた一禾がその頃になると帰って来ていて、いつもの黒いエプロンをきっちり着けてキッチンに立っていた。
「・・・何で染ちゃん居ないわけ」
「何でて言われてもな・・・俺が出かけるとき丁度起きて来たけど・・・」
「じゃぁ何で居ないの?もしかしてどこか出かけた?」
「いやぁ・・・にしてももう夕食時やで、一禾さん」
「何・・・誘拐?これは事件なの?」
「ええからもう・・・ご飯にしようや・・・」
「何でそんなに悠長にしてられるの!染ちゃんが酷い目に遭っているかもしれないのに!」
「多分その可能性えらい低いと思うで・・・取り越し苦労やわ」
「け、警察に電話を・・・!」
「もう何でもええから、ご飯にしてやー・・・」
何故この幼馴染たちはお互いのことになるとすぐに盲目になって、特に一禾はいつも冷静なのに、ただそれだけのことにこんな風に可笑しなことを口走りながら、取り乱したりするのだろうと、紅夜は溜め息を吐きながら思った。この調子では夕食にはまだ時間がかかりそうである。京義も一禾も然程お腹は空いていないのかもしれないが、今日一日遊んでいたわけでも眠っていたわけでもないのに、定時に夕食にありつけないなんて、呆れた視線をキッチンに向けても、一禾は頭を抱えてまた被害妄想を繰り返している。
ともだちにシェアしよう!