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モラトリアム入院 Ⅶ

外でご飯を食べること自体がまず、随分久しぶりだったことに、いつもより重いスプーンを掴んだ時染はようやく気付いた。暫く染の記憶の中を支配しているのは、学校のテラスとホテルの談話室であった。そしてその時にはいつも染は良く知った人間達に囲まれていて、一時の平穏を食事の味とともに噛み締めていた。以前はいつのことだったか、考えをめぐらせても思い出せないということは随分前のことだったのか、それともそんなこと自体が染の人生の中にはなかったか、おそらくどちらかに違いない。注文をとりに来た従業員は女の子だったけれど、全て滝沢がやってくれたので、その間染は一言も発さず俯いていれば良かった。あぁ、ぎゅっと握った手の甲をじっと見つめながら、やはり自分は甘えているのかと思ったけれど、そんな染の様子を見ながらも滝沢は何も言わずにただ笑っていたから、気を悪くした様子がないことに、染は安堵の息を吐いていた。 「ねぇ、黒川さん」 「は、い」 「本格的にってところはちょっと脇に置いとくとしてさ、バイトならまた来てくれるよね」 「・・・あ・・・」 「やっているうちに気が変わるかもしれないしね、良い風にも悪い風にも」 滝沢はそんなことを言いながら、明太子のスパゲッティをフォークに巻きつけて、器用にそれを口に入れた。スタジオに居た時は、どうしてこんな場違いなところに居るのだろうとずっと考えていた。今だって充分そう感じている。だけどそう思っていたのは、本当に染だけで周りの人たちは場違いだなんて思っていなかった。その差異はどこから生まれるのか、染には分からなくて俯いてしまう。それをただ染は感じることも理解することも出来なかった。出来るはずもなかった。 「また電話しても良い?」 小首を傾げながらあくまでもにこやかな姿勢を崩さないまま、滝沢は穏やかな声で染にそう問うた。譲歩してくれているのだろうと、染は思った。本当なら今すぐ契約というところを、滝沢だってプライドがあるだろうに、中々首を縦に振らない、かといって横に振るわけでもない、優柔不断な染のために、そういう風にして譲歩してくれているのだ。染はそれに段々申し訳無くなってきて、後先考えずに殆ど反射的に、滝沢がこちらの真意を伺うように、少し首を傾げて言うのに気付けば頷いていた。 「本当に?無理してない?黒川さん」 「・・・はい・・・あの、た、ぶん・・・」 「有難う、じゃぁまた電話するよ。番号入れといてね」 「はい・・・あ、あの・・・」 時間をかけて本当に大丈夫なのかと、自分に確認を取るのが怖かった。その場の空気のまま染は曖昧に肯定してみせて、滝沢が微笑むのに一時の満足を得ていた。もしかしたらこの後滝沢と別れてから、後悔するかもしれないと思わなかったことはなかったが、そんな染の危惧もいつの間にか失われていた。染が否定の言葉を持っていないのは、周りの人間に否定されるのを恐れているからだ。肯定し続けていれば、染は自分自身も誰にも否定されることはないと信じているからだ。馬鹿みたいだと思うけれど、自分でも思うけれど、そんなことでしかもう自分のことを守れないこともまた、染は理解しているのだ。染はそうして一生懸命守っている、それは誰でもない自分自身のことだけれど、時々考える。一体誰から何から逃れているつもりなのか、ぽかりとそこだけ穴が開いたように、染はその大事なことを何故か思い出せない。 言葉を続けようとして、迷って染は一瞬口を噤んだ。その時そんな心理状況の中、どうしてそんなことが言えたのか、後に冷静になって考えてみても良く分からない。どう考えても、自分にその時そんなことを言えるような判断能力や、そこまでの勇気があるとは思えなかったからだ。滝沢の目が途中で言葉を切った染の本意を探るように、真っ直ぐこちらを向いている。今言わなきゃ二度と言えないことは良く分かっていたから、染はからからになった喉のまま、言葉を繋いだ。 「あの、俺と、友達になって・・・くれませ、んか」 「・・・―――」 語尾は格好悪くも震えており、後半は殆ど意味のある言葉とならなかった。自分でも途中から何を言っているのかさっぱりで、この調子では滝沢はもっと理解出来ないだろう。言ってから仕舞ったと思ったけれど、事実を超えた後悔はなぜか余りしていなかった。そもそもその時自分の口から出た言葉ではあるが、染にはその友達と呼ばれるものの存在が良く分からなかった。いつも一緒に居る一禾は別物だと思っているけれど、キヨを自分の中でどう位置づけていいのか分からないことがある。キヨは染の友達なのか、その前に一禾の友達であるし。この間一禾がキヨの家に泊まった時、何だか凄く疎外されたような気がしたのだ。自分は結局一禾の関わりの中でしか生きていないことを、痛感して愕然とした。 はじめからそのつもりだったのかと、染は自身に問いかけるが返答はない。そのつもりで話をしたのか、だとしたらとんでもない愚弄だと自分を責めざるを得ない。考えながら染は、無意識に顔が熱くなったのを感じた。その時それを聞きながら、滝沢が一体自分のことをどう思っただろうとそのことは確かに気になるが、顔を上げるのはそれ以上に怖くて、すぐには出来そうもなかった。 「・・・なんだ、そんなこと・・・」 拍子抜けしたように滝沢が呟いて、染はようやく顔を上げた。 「全然良いよ、何そんな一世一代の告白みたいな風に言うのかなぁ、吃驚した」 「・・・良い、んですか・・・」 「良いよ、俺なんかで良ければ」 「・・・―――」 染の余りにも震えた小さな声に、滝沢はその目を三日月形にして笑っていたが、それは染自身の被害妄想に出てくるのですっかり親しみ深くなっているこちらを馬鹿にするような笑みではなかった。そして何でもない風に、実際彼にとっては何でもないことだったのだが、染の要望に快く承諾してくれた。染はそれに心底安心して、緊張して硬いままだった表情を俄かに緩めた。 「俺、(アキラ)ね、滝沢彰」 滝沢はテーブルにゆっくり指で名前を書いて、それからにこりと笑った。 その後染はホテルの近くまで滝沢に送って貰い、夜も深まる時刻になってからようやくホテルに戻っていた。そういえば、こんな長い間ホテルからひとりで出かけたのも久しぶりだった。煩かった心臓はいつの間にか平穏を取り戻している。それは染が冷静で居られる唯一とも思える証だった。ただいまとがらんとしたポーチに声をかけ、誰の返事もないことに特別憔悴していない。変な感じだ、いつもならもっと気分が悪くなるのに、と思いながらその場に靴を脱ぎ捨てそのままの足で談話室に向かうと、キッチンでどうやら皿を洗っているらしい一禾の背中が目に入った。一禾を視界に入れると途端に安心して、やっぱり気を張っていたのだなと自分でも恥ずかしく思ったけれど、そんなことは今更どちらでも良かった。 「あれ、染ちゃん」 「ただいま、一禾」 「・・・どうしたの、どこ行ってたの・・・」 「うん、ちょっと、そこまで」 「・・・」 「ご飯食べてきたから、今日は要らない」 「・・・―――」 一禾が声もなく、ただ驚いた様子でこちらを見ている。染はそれに出来る限り、歓喜を含んだ方法で微笑んで見せた。それがお互いにとってどんな将来に繋がっているのか分からない。だけどどんな結末になっても、この時一生懸命やったことを後悔なんてしないだろうと、染はただそう思っていた。

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