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移ろいゆく日の朝
誰かが手を叩いている。拍を取って京義の後ろで、その指が調子を狂うのを待っているのだ。誰かが拍を取っている。座っているそのすぐ後ろで、間違えると罵声と虐待染みた暴力が飛んで来る。だから京義は間違えられない。拍を取っている調子が徐々に崩れていく、指のほうが頭よりも急いて勝手に動く。駄目だ、駄目だ、冷静になれと叫んでも、音を追う指が止まらない。必死に楽譜を辿り、回転させていく。三ページ目の最後の小節、小指を延ばした先に白鍵がない。作り上げていたものが不意に途切れて、ばらばらと端から零れ落ちていく。京義はそれをただ呆然と見ていた。どうして良いのか分からずに、ただ見ていた。
「オイ、京義!」
「・・・―――」
揺り動かされて、京義ははっと我に返った。天井には眩しい白熱灯が光っている。上半身を起こすと、そこに眉間に皺を寄せた片瀬が制服のまま心配そうな顔で、こちらを見ているのと目が合った。京義を呼んでいたのは、如何やらその片瀬らしかった。ぜいぜいと喉の奥で荒く呼吸が乱れているのが、自分でも良く分かった。普段どんなに気温が高くともかかない汗が、冷たく京義の額をしっとり濡らしていた。それを右手の甲で拭うと、胃液が不意にせり上がって来て、思わず口を押えた。
「何だ、吐きそうなのか?」
「・・・」
「大丈夫だ、全部吐いちまえよ、楽になんだろ」
「・・・―――」
ぜいぜいと喉の奥は狭く酸素を拒否している。京義は白いビニール袋を何処からか用意した片瀬の手のあたりばかり見つめて、くらくらと視界が揺れているのに更に気持ちが悪くなる。楽になる、楽になるのだろうか、そんなに簡単に楽になって良いのだろうか、分からない。その内にぐらぐらと脳味噌まで揺れているような気分になってくる。気持ち悪くて本当に吐くかと思って、殆ど無意識のままビニール袋を掴んだが、口から出てきたのは透明な唾液ばかりで、いざとなると喉に引っ掛かるばかりで何も出て来なかった。そんなことでも楽にはなれないのだ。その間にも片瀬が京義の背中をそっと撫でてくれたが、それには首を振って断わりを入れた。そういう温かいだけの手のひらは、余計に気分が悪くなるばかりだ。
「しっかりこれ持ってろ、店長に言って来るから」
「無理すんなよ」
片瀬がいつもよりその声に神妙さを含ませて、京義に必死にそれでも何処か安心させようと優しく言葉を掛ける。平常から片瀬はふざけていることが多く、こんな風に真剣にしているところを殆どと言って良いほど見たことがない。京義はそれに何も言えずに、ただ片瀬に渡されたビニール袋をぎゅっと握って、体が勝手に震撼するのと戦っていた。時々夢を見るのだ。夢を見てはその実体の無いものに恐れをなして震えている。そんな自分が惨めで仕方がなかったが、京義はその震えを止める方法を知らない。ぎゅっと目を瞑って硬く手を握って、やり過ごすことしか出来ない。そうして自分というものの奥底に、それはまだ確実な形を持って燻っているのだと、思い知らされてそれにただ血の気が引いていく。
ややあってスタッフルームに片瀬が戻って来た。その頃になると京義は随分肉体的にも精神的にも落ち着いて、ただビニール袋を握ってロッカーに凭れたままぐったりとして、じっと動かないで居た。こうして暫く目を瞑っていると、それなりに体力も回復しそうな兆しは自分の中にある。しかし今はあからさまにその表情に疲労の色を滲ませて、それを隠すほどの余裕がない。戻って来た片瀬が何も言わずに向かいの長椅子に座るのに、京義はちらりとそれに目をやるだけしか出来なかった。
「店長、もう今日は帰って良いってさ」
「・・・すいませ・・・ん」
「大丈夫だよ。もう少し落ち着いたら俺が送ってやるから、帰ろうな」
いつも十二分に片瀬の声は優しかったが、その時のものは恥ずかしくてこちらが聞くに堪えないほどの甘さを含んでいた。どうせどんなに孤高に振舞ったって、結局ひとりでは生きられなかった時のように。思い知らされる。こういう大人の前で自分がいかに子どもで、ひとりでは何も出来ないことを。そうして京義は今あのホテルに世話になっているのだ、本末転倒だと自分でも思うけれど、それ以上にあそこは心地が良いせいで抜け切れないのは、やはり守りのない世の中に少しでも恐怖心があるせいなのか、分からなかった。そんなに自分の中に甘さや弱さが潜んでいるとは思えなかった。思いたくなかった。
「・・・大丈夫、です。ひとりで、帰れます、から」
「そんな大丈夫じゃねぇ顔で分かり易い嘘吐くもんじゃねぇな。甘えときゃ良いんだよ」
「・・・」
「お前はまだ子どもなんだから」
「・・・―――」
あぁ、子どもなのだ。どこまで行ってもまだ子どもなのだ。突きつけられる真実から、必ず目だけは反らすようにしている。京義は何度も思い出そうとする、夢の中で弾いていた曲の名前を。思い出せないのだが、その続きを上手く弾くことが出来たら、何か変るような気がして思い出そうと躍起になる。いつも中途半端なところで夢の記憶は途切れて、そこから京義が手を伸ばすことを拒絶しているようだった。だから京義には如何することも出来ない。目を瞑ったらいつものようにそのまま眠ってしまいそうで、いつの間にか喉をうろうろしていた吐き気が、治まっていることに京義はまだ気付いていなかった。
朝日がきらきらとガラスに反射している。電気が消えると暗いスタッフルームも、その頃は一段と自然の光の中で妙に爽やかな明るさを湛えている。その硬い長椅子から、余り従業員が使っているところを見たことがない黒のソファーに、京義の体はいつの間にか移されていた。その丸めた背中に寒くないようにと、殆ど気休め程度に片瀬のダウンジャケットがかけられている。
「・・・それで朝まで放っておいたのかい、君は」
「だって店長、何か可哀想じゃないすか。起こして連れて帰るのも」
「僕はそれが懸命だったと思うよ」
「いや、だから目ぇ覚ましたら送って行きますって」
「・・・全く」
結局その後すぐに京義は眠ってしまい、どうしようか迷っているうちに、「ミモザ」も忙しくなった。今寝ているので起きたら送って行きますと、何度か片瀬は店長に京義を放ったらかしている件について釈明したが、結局それは実行されずに、三人で朝を迎えてしまっていた。店長はいい加減な片瀬の処置に溜め息を吐きながら、そのカーキ色のダウンジャケットを引っ張って、いつの間にかずり落ちて露になっていた京義の肩にかけ直した。片瀬はそれにバツが悪そうに笑っているが、朝まで京義が起きなかったのは誤算であった。この様子では余程疲れていたのだろうか。いつもは暗い照明の下、どこか人間離れした形をしているが、朝日の元で見ると京義はその見た目こそ派手ではあるが、普通の高校生だった。あぁ、そうかこの少年はまだまだ養育下にある子どもなのだと、それはこちらに思わせるだけの要素を完全に備えている。それは何故か、その時双方を自棄に安心させていた。京義はらしくないところとらしいところが、殆ど同程度共存して成り立っている。
「君まで変なこと言い出さないでよ、片瀬くん」
「へ、何ですか。変なことって」
「最近笹倉くんがちょっと可笑しくってさ」
「何すか、ちょっと面白そうじゃないですか、それ」
「面白くないよ、大迷惑だよ」
もう一度店長が溜め息を吐いて、片瀬がその真意に迫ろうとした時、京義が何事か呟きながら狭いソファーの上で器用に寝返りを打った。
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