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あの星は見えているか Ⅱ

「・・・何やねん・・・いきなりやな・・・」 別にそんなに驚くことはないだろうとは思ったけれど、紅夜はどうやらそうではなかったらしく、たっぷり2分ほど押し黙った後に、言い辛そうに目線を反らしてそうぽつりと呟いた。それはことの深刻さを物語る、随分大袈裟な反応に思えた。何が紅夜にそうさせているのか分からない、嵐は特別それを気にかけるのは止めにして、肘を吐いたまま紅夜から視線だけずらした。大体そんな風に一々気を遣っていたら、出来ることも出来やしないというのが、嵐の持論である。 「何だよ、俺お前の友達だろ」 「そやけど・・・つかホテルは俺の家ちゃうしな」 「住んでんだろ、家じゃん」 「や、ナツさんのもんやし・・・他の人も居るし・・・」 「じゃ、そのナツさんに承諾とってくれよ、それなら良いだろ」 「・・・うーん・・・」 返答は珍しく歯切れが悪く、紅夜は困ったように唇に曖昧な笑みを浮かべる。分かっている、分かっていてやっている自分の性の悪さも理解している。紅夜がこんな風にして悩むのは、自分の欲求や要望が他の人の迷惑にならないかどうかを、ただ考えているのだ。全くこの若いのに人間が出来ている、完成してしまっている。紅夜はこうしたいとかああしたいとか思わないのではないだろうかと嵐が感じるほどに、勿論そんなことは有り得ないのだが、その感情機関だけすっかり失ってしまっているような気がする。嵐はそれが素晴らしいことだとは思えない。紅夜のそれは周りの環境からの圧力で、成らざるを得なかった結果である。詳しい事情は知らないが、まだ高校生時分に親以外の親戚でもない養育者に世話になっているその現状から推測するに、想像と大差ない現実を紅夜は知っている。尤も夏衣が親戚かどうかは、少々微妙なところではあるのだが。 「何だよ、俺はお前のこと心配してんだろ」 「・・・いや、心配て。何の心配やねん、楽しくやってるわ」 「じゃぁ良いじゃねぇか、家に友達呼ぶくらい」 「・・・分かったわ・・・嵐がそこまで言うんやったら・・・一応、聞いてみる」 「お、何だ、話せば分かるじゃん!」 「言うとくけど一応やからな!」 心配というとあからさまに紅夜の目が少し泳いだ。この反応ではそういうことを言われ慣れていないのだろう、動揺したように強調したいはずの語尾が不自然に小さくなる。押し切れると思って机に乗り出して、目を反らす紅夜の視線を無理に追いかけ表情を伺うと、完全に渋々というように、しかしながら結局紅夜は承諾をした。紅夜がそういう言葉に弱いことを、付き合いの中で嵐は知っている。友達という言葉を特別視しているのも知っている。もしかしてちょっと今回のこれは流石に卑怯だったかなと自分でも思ったが、別段悪いことにならなければ良いかと、勝手にいい加減な理由で正当化される。 紅夜が黙ったまま何も話そうとしないので、嵐も敢えて聞こうとはしない。これが大人のやり方であると背伸びをした子どもながらに心得ているからだ。もしかしたら散々やったことの延長で、紅夜にとっては何でもない事実の話かもしれないが、だったら余計に嵐は聞けないと思う。彼が目蓋を伏せて小さく呟く、過去の名前などにはなりたくないからだ。 その日、紅夜と京義が家に帰ると、大学は午前中授業だったのか、既に一禾と染は帰っており、染はお気に入りのソファーに寝転がって特別何をしている風でもなく、それとは対照的にキッチンに立ち夕食の準備に動き回っている一禾は忙しそうだった。しかしいつどんな状況で帰ってきても、染が忙しくしており、一禾が寛いでいる様子を見たことがない。先日まで実家に帰っていた夏衣は、何の前触れも見せずに突然帰って来ていて、平常からそこに居るものとして認識が最早先走っている。こうして談話室に全員揃うのは、夏衣がホテルを空けていたせいか、酷く久しぶりのような気がした。 「おかえり、紅夜くん、京義」 「ただいまー」 「・・・」 こちらに気付いた一禾にそう言われて紅夜は返事をしたが、眠いのか機嫌でも悪いのか、目を開けているはずの京義は何も返さなかった。それも特別珍しいことではなかったので、紅夜は気にしないまま染の寝転がっている向いにある一人がけソファーに重い鞄を下ろした。いつもならここで暫くニュースでも見ながら寛いだ後、着替えに自室に戻るのだったが、染がつけているテレビは芸能ワイドショーをやっている。珍しく覚醒したまま帰って来た京義が、染が居るからこちらには寄り付きたくないのが本音なのだろう、がたがた音を立てながら椅子を引きそこに座ったので、紅夜は何となくそちらに目をやると、京義の正面には夏衣が座っていた。 ダイニングテーブルにいつものラフな格好で座り、黒縁の眼鏡をかけた夏衣は、絶対一禾が買ってきたものではない、チョコチップクッキーを酷く義務的に口に押し込みながら、茶色いカバーのかかった文庫本のページをひたすら捲っている。その横顔を見ていると、不意に今日の昼休み嵐とした会話を思い出した。正直嵐があんな風に言ってくれるのは嬉しかったし、何だかそれは胸が高鳴るような響きを持って紅夜のところまで届いたけれど、それを口にするのは躊躇われた。まだ夏衣に気を遣っているのか、それとも他の理由なのか、紅夜は良く分からない。しかし意識の深いところで、余り乗り気ではない自分が居る。 「紅夜くん?」 「え・・・」 「なに、どうしたの?」 「あ・・・うん・・・あの・・・」 きっと夏衣は無碍にあしらったりしないし、他の皆だってそんなことはしない。しかしそれは単に、そんなことは体裁上出来ないからだと、だからに過ぎないと紅夜は知っている。だから怖くて言い出せない。その時口篭もった紅夜のことをちらりと興味無さそうな目で見た京義は、夏衣のチョコチップクッキーの袋に了承なく手を突っ込み、二三枚取り出して、ばりばりと噛み砕いた。それをキッチンから見ている一禾が、どことなく嫌悪感を滲ませた目で見ていた時だった。 「友達が来たがってんだって」 「・・・え?」 「へー、京義の?京義友達出来たんだね、良かったー」 「違ぇよ、相原の」 「え、紅夜くんの?」 「・・・あ・・・うん・・・そうやねんけど・・・」 確かに京義には帰りの道々、そんな話をしていたが、いつものように京義は殆ど無反応だったので、それをちゃんと聞いていたことにまず、紅夜は驚いていた。自棄に明るい夏衣の反応も気にかかるが、それよりも突然その核心に触れた京義の真意が分からない。確かに紅夜は言おうとしていたが、今までの振る舞いから京義にそんな気遣いが出来るとは到底思えなかった。考えながら京義の横顔をじっと見つめていると、ちらりと向けられた視線は、やはり何の温度もしない冷たいものだった。 「へー・・・あ、もしかしてこの間の子じゃない?」 「あ、うん・・・あんな、でもナツさん」 「良いじゃん、呼びなよ」 「・・・」 「紅夜くんの友達?俺も会いたいな、それ」 「・・・ちょ、ま・・・誰か来んの?」 一禾までもがキッチンから身を乗り出し、今までへらへらと楽しそうにしていた染は慌ててソファーから立ち上がって、事情が良く分からないまま器用に顔を青くして、そう抗議とも呼べないような弱い反応をしたが、それを聞いている人間は最早ここには居なかった。

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