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あの星は見えているか Ⅲ
所有者である夏衣が良いと言うのだったら、紅夜は特別それを止める理由を持っていない。そんなこんなで本人の意思通り、嵐がホテルにやって来たのはその週末のことだった。電車とバスを乗り継いで、全く乗り入れたことのない山道に立っている。良く知らない丘の上だと紅夜が曖昧に言っていたことを、その時嵐はふと思い出していた。本当にそうとしか言いようのない場所だった。その紅夜は寒かっただろうにバス停で、嵐がバスから降りた時は既に鼻の頭を赤くして待っていた。
「凄ぇとこ住んでんだな、お前」
「まぁな、迷わんかった?」
「一応」
「何やそれ」
言いながら紅夜がいつものように笑う。その口から真っ白い息が吐き出されて、瞬くうちに空中に分解されて見えなくなる。その日は随分と寒い日だった。嵐が紅夜の住んでいるところに行ってみたいと言い出した時、流石に紅夜は慌てたが、考えてみると嵐の家にお邪魔したことは一度もなかった。学校近くに住んでいるらしいということは、何となく日々の会話から想像出来るが、交通の便の良い都内に住んでいる嵐にとってみれば、此処は辺境地以外何物でもないだろう。東京という場所も中々広いものである。嵐が物珍しそうにきょろきょろしているのを促して、紅夜は先だってホテルまでの山道を歩き出した。
「薄野は?」
「京義ならホテルに居るわ、寝てるかもしれんけど」
「ふーん・・・他の人も?」
「うん」
何故か一禾は紅夜の友達が来るというそのことに、やたらと乗り気で三日前から自棄に張り切って、いつも以上に食材を買い込んでいるようだった。一禾に任せておけば大抵のことは心配要らないと平常から思っていたが、それを差し置いても今日の夕食は不安である。結局最後まで染だけは渋っていたが、その染の意見を誰も尊重しなかった。蔑ろにされて今日の朝染は不貞腐れていたけれど、流石にやって来る嵐の手前、不承不承な顔はしないだろうとは思うものの、今となってはもう少し構っておくべきだったのかもしれない。紅夜はただそれだけが心配だった。京義はいつものように休日であると昼前まで眠っていることが多いので、紅夜がホテルを出る頃はまだ布団の中で丸くなっているようで姿は見えなかった。
山道を少し歩くと頂上近くに、元々ホテルだったらしい話は聞くが、そんなに規模の大きいわけではないこぢんまりとした真っ白い洋館が見えてくる。隣で嵐がボストンバッグを一度肩にかけ直しながら、ひとつ感嘆の声を漏らした。それが白く残って、すぐに消える。
「あそこ」
「へー・・・マジで普通のホテルなんだなー・・・」
「何かここらへん一体はナツさんの持ち物やねんて」
「はー・・・やっぱ金持ちは違うなぁ・・・」
「でもナツさんって、金持ちなんかなぁ」
嵐の意見は尤もだと思うが、夏衣が働いているところを全く目にしていない紅夜は、そのお金が一体どこから溢れて、夏衣の所有になっているのかについては、首を捻ることしか出来ない。この間三者面談に来た時も、見たこともないスーツに身を包み、見たこともない車に乗っていた。大体アレが夏衣のものか如何かも疑わしいというのに。紅夜が首を捻っている間に、嵐は楽しそうに目を輝かせて目的地であるホテルに着いたというのに、きょろきょろと辺りを見回して落ち着かない様子である。
「ちょっと、嵐。何してんねん、早う行くで」
「何だよ、ちょっとぐらい良いじゃん、すげーな。マジで。こっち何があんの」
「何が凄いねん、そっち何も無いで・・・」
走り出した嵐を呆れた様子で紅夜がその背中を追いかける。ホテルの隣には駐車場があるだけだった。立ち止まっている嵐にようやく追いついて、紅夜は心底仕舞ったと思った。そこには高級車の数々が、暗い駐車場の中、きらきらと光を瞬いて存在をこちらに知らしめてきている。
「凄ぇな・・・何これ・・・」
「・・・」
「これも夏衣さんの?」
「や・・・これはその・・・一禾さんって言って、別の人の・・・」
「全部?」
「・・・まぁ・・・そうなるな・・・」
はぁと隣で嵐が溜め息を漏らす。それの意味するところが良く分からなくて余り深く考えるのも嫌で、それを紅夜は聞かなかったことにした。立ち尽くしてぴかぴか光る高級車に見入っている嵐の腕を紅夜は無理矢理引っ張って、ようやくふたりは駐車場から脱出した。明るくて白いポーチは、元々ホテルだっただろう外観を留めている。茶色の扉の前に立つとそれが自動でふたつに分かれる。このあたりは金持ちの道楽として作られたわけではなくて、勿論元々ホテルだった頃の名残であり、エントランスを入ったところに自動扉の電源パネルがあるのだが、紅夜は今までこの無駄なつくりの電源が落とされているところを見たことがない。興奮気味の嵐を宥めて、誰も居ないエントランスに紅夜はいつものように入って、脱いだ靴を揃える。
「おぉー・・・中もホテルっぽい」
「俺の部屋あの階段上ったとこ、京義は階段挟んで右側の部屋」
「へー・・・」
エントランスから入ってすぐに右手に大階段がある。エレベーターも勿論あるのだが、住人は何故かそれを滅多なことでは使わない。紅夜や京義は二階の部屋だからかもしれないが、一禾や染がエレベーターを呼び出しているところも見たことがない。そしてオーナー夏衣の部屋は目立たない大階段の裏側に位置している。そのような日陰にある夏衣の部屋が一番広いことを、そして紅夜はまだ知らない。
そして左手には元々スタッフルームだったらしいところを改装して作られた談話室と、その奥に浴場がある。バスルームは全員の部屋にそれぞれあるのだが、部屋にあるものを使うと自分で掃除をしなければならないことを面倒臭がっている住人は、必然的にそこを使うことになる。それでも一週間に一度か二度、当番制の風呂掃除が回ってくるのだったが。ホテルの見取りは殆どこんな感じである。二階三階は個人の部屋として使用しているところ以外、手が付けられていない。
「取り敢えず、俺の部屋に案内するわ。荷物そこに置いたらええし」
「おぉ・・・にしても凄ぇなー・・・」
まだ感心している嵐を連れて、紅夜が階段を上っている時だった。
「紅夜くん!」
不意に声がして振り返ると、階段下にいつもの様相で夏衣がにこにことこちらに手を振っているのが見えた。もうそろそろ着くころだと思って、出迎えるつもりだったのだろう。それにしても夏衣が気合の入れた格好などをしていなくて安心した。自棄に皆乗り気だったからどんなことになるかと思って、それには不安しか感じていなかったのだ。ちらりと隣の嵐に目をやると、嵐は幾分怪訝そうな顔をしていた。
「いらっしゃい、話は聞いているよ」
「・・・あぁ・・・はぁ・・・」
それを紅夜は不思議に思ったが、夏衣の手前問いただすことも出来ないでいた。しかし夏衣はそれに気付いた様子もなく、貼り付けた人の良さそうな笑みを微塵も崩さずに、大階段を側まで上ってきて、親愛のつもりなのか嵐の肩をそのテンションのままぽんぽんと叩いた。それに更に嵐は困惑し切ったように、不可解ならしくない曖昧な返事を口から漏らしていた。
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