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あの星は見えているか Ⅳ
しかしそんな嵐の様子に気付いていたのは、隣でそれを見ていた紅夜だけだったらしい。夏衣はいつものようにその顔を年不相応に幼く綻ばせている。これは一体どうしたことなのか、もしかしたららしくもなく緊張でもしているのかと、少々訝しげに黙ったままの嵐を見やるが、その嵐はぼんやりとした視線を夏衣に送っているだけであった。両者の思惑とは全く関係のないところで、小首を傾げた反動で顔の上を滑った黒縁の大き目の眼鏡を、夏衣は少しも鬱陶しそうな顔をせずに直している。
「ゆっくりしていってね、皆歓迎してるから」
「・・・お邪魔します・・・」
「後で皆紹介するからね、楽しみにしてて」
「はぁ・・・」
「何やねん・・・その含みのある言い方・・・」
「まぁまぁ、じゃぁまた後で」
階段上に残されたふたりにひらひらと軽快に手を振って、夏衣はやって来た時と同じ要領で軽やかに去っていった。そして一禾が今頃忙しくしていると思われる談話室に、その姿を滑り込ませる。紅夜はその背中を見ながら、ひとつ溜め息を吐いた。一禾だけではなく夏衣もどこか浮き足立っている気がするが、それは紅夜の気のせいだろうか。あの様子では今夜の夕食を不安に思わないほうが、些か問題である。そして不意の夏衣の登場に大人しくなってしまった嵐のほうをちらりと見やると、夏衣が消えた談話室のほうを、嵐はただぼんやりと眺めていた。また何か言われるのも考えものだったが、こんな風に黙られるのも気味が悪い。全く自分勝手なことであるが、紅夜は此処までの気疲れのため気付いていない。
「・・・どうしたん」
「今の夏衣さん?」
「そやけど、嵐前会ってるやろ?」
「想像と違った・・・」
「はぁ?」
何事かと思ったが、がっくり肩を落として嵐は悲痛にそう呟いた。想像と違うと言われても、それは以前聞いていたことだった。それに嵐は、三者面談の時一度夏衣には顔を合わせている、ということはもうそこで本物には会っているわけである。それが今更、想像と違うとは一体どういうことなのか。深刻そうに顔を歪める嵐を見る限り、これは本気でショックを受けているようだった。
「・・・何やねん、想像って・・・」
「夏衣さんってもっとこう、きらきらしてたじゃん!この間会った時は!」
「あぁ・・・あれはただ余所行きやったからやって、家ではあんなもんやって」
「・・・」
「っつか家であんなきらきらされたら目のやり場に困るわ」
「そりゃそうかもしれねーけどよ・・・」
「何にショック受けてんねん、早う行くで」
「・・・おう」
呆れて紅夜が促すのに、嵐は力なく首を縦に振った。
ホテルの夕食はいつも定刻に行われるわけではなかった。そのあたりはいつも当たり前と言えば当たり前だったが、一禾の食事の準備状況に依存している。だからもうそろそろという時刻を各自認識しているのか、その頃になると自然に談話室に降りてくるのがいつもの成り行きだった。ただし京義だけは往々にして眠っている場合が多いので、大体誰かが起こしに2階に向かわなければならない。別段全員が揃って食べなければならないという決まりがホテルの中にあったわけではなかったし、誰もそれを確かめたことはなかったが、折角一緒にいるのだから、なぜか全員が全員一緒に食べたほうが良いだろうと思っていたことの結果なのだろう。
その日もいつもとそれは変わらなかったが、紅夜が嵐と共に談話室に降りて来ると、テーブルの上には一体誰の誕生日会なのだと首を捻らざるを得ない料理が所狭しと並んでいる。ふたりがやって来たのを逸早く察知したのは夏衣で、もうどこにも置く場所がないだろうサラダの白いお皿を手に、呆れている紅夜と感心している嵐のほうに先刻と同じ笑顔で近付いてきた。
「やぁやぁ、嵐くん。改めていらっしゃい」
「あ、お邪魔します」
「染ちゃん、こっちおいで、挨拶ぐらいしたらどうなんだい」
「・・・う・・・」
キッチンのカウンターの後ろに染が身を隠していたことを勿論知っていた夏衣は、蹲る大人の腕を引っ張って、こちらに半ば引き摺るようにして連れてきた。染も嫌なら自室に篭っていれば良いのにと思うが、久しぶりに一禾の本気の料理を目の前に食欲の方が勝ってしまったのだろう。兎角良く食べる染は、一体何処でそれを発散しているのか知らないが、夏衣が掴むその腕にも足にも無駄な脂肪はついていない。それを苦笑いで見つめる一禾は、しかしいつものように夏衣の行いを引き止めることはなく、まだ懲りずに嫌がる染の肩をぽんぽんと叩いて、その後ろからゆっくり着いて来た。どうやら食事の準備は出来ていたようだ。確かにこれ以上品数を増やしても、テーブルに置くことすらままなりそうもない。
「紅夜と同じクラスの宮間嵐です」
「ホラ、染ちゃん、挨拶」
「・・・く、黒川・・・染・・・です」
夏衣に促されて完全に渋々といった表情のまま、非常に聞き取り辛い小さな声で、染は全く嵐とは目を合わせようとせずに義務のようにそう漏らした。紅夜は流石に染も大人だから、確かに嫌がってはいたが、いざ嵐を目の前にしたらちゃんとそれらしく振舞ってくれるものと思っていた。しかし完全に染は紅夜の想像の逆をいっている。もしかしたらとは思っていたが、と紅夜は呆れ返っていたが、その隣で嵐はというとそんな不貞腐れた染の挨拶を気に掛けるわけでもなく、その視線を強引に反らしたままの染の横顔をじっと見ていた。
「もう、御免ね、嵐くん。染ちゃんは誰に対してもまぁまぁこんな感じなんだ。人見知りするんだよねー・・・」
「あ、いや。俺は大丈夫です」
「御免ね。ホラ、一禾」
「あぁ、はいはい。宮間くんこんにちは。上月一禾です。狭いところだけどゆっくりしていってね」
「あ・・・」
「狭いところって、何だよ、それぇ。狭くないじゃん。一禾そんな風に思ってたの?」
「いや謙遜だよ、ただの謙遜」
ホテルを貶されたと思って少々憤慨気味の夏衣に、一禾は何でも無いようにひらひらと手を振ってそれを流した。流石に一禾の対応は大人そのものである。そうして、キッチンに逃げ帰ってしまった染の後を、溜め息を吐きながら追う。その後姿を見ながら、嵐は隣で諸々のことですっかりげんなりしてしまっている紅夜にそっと身を寄せた。そして他の人間には気付かれないように、こそこそと小さく呟く。
「・・・あの人が一禾さん?」
「あぁ、そう・・・」
「へー・・・何であんなに一杯車持ってんだろ・・・」
「それは聞かんほうがええと思うで」
また呆れたように紅夜が隣で深く溜め息を漏らすのに、嵐はワケが分からなくて首を捻る。それにしても、それにしても、だ。思いながらそっとキッチンの奥で蹲っているらしい染のほうを見やった。そうは言っても、カウンターの衝立が邪魔をしてこちらからではその姿を見ることは出来なかったが。あんなに美しい生き物を、はじめてみたような。思い出しても胸の奥を無関係にざわめかせる、それは何もかもを完全に超越してしまっている美しさだった。夏衣も一禾も容姿は綺麗に整いそれぞれに癖のない纏まりのある雰囲気をしている。だけど染は違う。その誰とも違う。そんな風に完成された美しさを、嵐ははじめて目の当たりにしていた。
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