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あの星は見えているか Ⅵ
元々ホテルだっただけはあり、一階にある備え付けの風呂は相当に大きかった。寝間着代わりのシャツを着て、首からタオルをかけた格好で嵐はひとり紅夜の部屋まで戻る途中だった、談話室から夏衣が出て来たのと丁度出くわしたのは。嵐が吃驚して立ち止まるのに、夏衣はやはりその計算されている笑みを全く再現し、それに畏まったまま勢いよく頭を下げた。
「お風呂どうだった?ちゃんと温まったかな?」
「はい、あの、大きかったので吃驚しました」
「あはは、アレはただホテルだった時の名残なんだ、ちょっと水道代無駄にしてるよね」
良く笑う人だと嵐は思った。確かにその時夏衣は以前学校で見かけた時の、別世界の人間のような不自然なオーラを纏っていなかったが、だからこそ本当に紅夜の言うように、この土地に馴染んで此処で生活しているのだと、それは分かり易く告げているようだった。歳は幾つも上のはずなのに、笑うと表情と共に雰囲気が緩まって途端に幼く見える。それが普段のシャープな横顔とリンクして、胸の奥をざわめかせる。確かにこの人が日長きらきらしていたら、目のやり場に困るという紅夜の意見も頷ける。
「明日も昼までは居られるんでしょ」
「あ、はい。お邪魔します」
「ゆっくりしていってね、おやすみ」
「・・・おやすみなさい」
にこりとまたその顔を幼くして、夏衣はひらひらと手を振った。暫く嵐はそこに突っ立ったまま夏衣が自室へ帰るその後姿を見ていたが、ふと大事なことを思い出した。それは渋る紅夜にどうしても来たいのだと頼み込んだ、大いなる理由だった。嵐は仕舞ったと思ったが、その背中に声をかけるのを躊躇しなかった。ここで別れたらもう二度と、ふたりで話すチャンスなんて無いかもしれない。無いかもしれないと思うと、それは実に簡単に嵐の喉を震わせることが出来たのだった。
「夏衣さん!」
自室へと帰りかけていた夏衣は、嵐の声でぴたりと足を止め、こちらに振り返った。その顔は少し驚いているようにも見える。しかし特別面倒臭そうな表情も浮かべずに、簡単にこちらに戻って来てくれた。嵐はこっそりとその間に辺りを伺った。ホテルの中はしんとしていて、感じ取れる中には人間の気配はない。談話室にまだもしかしたら人が居るかもしれないし、誰かが出てきたら厄介だなとは思ったけれど、今更そんなことに構っている場合でもなかったのも事実である。
「どうしたの?」
「あの、お話があるんですけど」
「俺に?良いよ、なに?」
唇に笑みを湛えながら、夏衣はふざけるようにして少しだけ首を傾げた。表情だけでなく、仕草も時々子どもっぽい。しかしなぜかそれに胸の内を探られているような気がして、嵐は気が気ではなかった。風呂から出たばかりの体は温まっていたはずなのに、暖房器具のない中央の吹き抜けに立っているせいか、指先や足先などの末端からどんどん熱が奪われていくのが分かった。夏衣は一体どう思っているのだろうと考えるが、黒のセーターは多分少し大きめのサイズなのだろう、その指先が僅かに見える程度で、すっぽりと手の甲まで覆っていて、随分暖かそうに見えて嵐はそれだけでほっとしていた。
「あの、俺なんかが言うのは図々しいと思うんですけど」
「良いよ、遠慮なく言ってみて」
「・・・紅夜の、ことなんですけど」
もう一度もし夏衣に会うことがあったなら、もしふたりで話す機会が一度でもあったなら、嵐は夏衣に言っておきたいことがあった。本当に子どもの自分がただ友達だからなんて弱い信頼を翻して、大人に楯突こうなんて馬鹿げた考えかもしれない。だけど何となく、まだ夏衣は嵐の知っている大人よりは自分たちにより近いところに居ると勝手に勘違いしているせいなのかもしれないが、夏衣ならばと思った。良く知りもしないその友達の養父のことを、なぜか嵐は殆ど直感に近い感覚で信じ切っていた。
「あいつは・・・もしかしたらもう知っているかもしれませんけど・・・あいつ、大学行かないって言うんです」
「・・・へぇ、それは初耳だ」
「これ以上迷惑をかけられないからって、あんなに頭良いのに、いやそれ以上にアイツ凄ぇ頑張ってるのに、そんなの凄く勿体無いって・・・俺、思って・・・」
「・・・」
「・・・すいません、出しゃばったこと言って」
夏衣が笑顔だったその顔を、すっと無表情に戻した。それにはもう幼い影は見当たらなく、嵐の目にはただひとりの大人にしか映らなかった。黙ったまま夏衣はそれでも無表情で、ただそれには首を振った。一体それが何の否定だったのか、嵐には良く分からなかった。紅夜がどうしてこんなところで生活しているのか知らない。紅夜が何も言わないのだから、こちらから聞く権利もそれは無いことを意味している。だけど嵐は考える。紅夜の父親は、母親は、息子をこんな東京の真ん中に放り出して、一体どこで何をやっているのだろう。そうして思考はいつも同じところに辿り着く、もしかしたらその役割を担う人間は、もうここには存在していないのかもしれない、と。
「・・・こんなこと、俺が言うのはおかしいと思います。だけどアイツは絶対言わないと思うから・・・」
「・・・うん」
「すみません、お願いします。夏衣さん、アイツのこと大学に行かせてやってください」
紅夜は絶対に口にしないだろうと、その何処か達観した横顔を見ながら嵐は何度も思ったものだった。そうならなければならなかった環境が、今の紅夜を作っている。紅夜は選択することを、自ら望んでいないようにも見えた。自分の将来というものを、何処か投げ出して考えているようにも思えた。夏衣の顔は見られなかった。だから嵐は言いながら頭を下げた。つるつるに磨き上げられた白い石が光っている。それを夏衣のルームシューズが叩く音がして、嵐はぐっと目を瞑った。
「いい子だね、嵐くんは」
くしゃくしゃと髪の毛を掻き回されて、そっと目を上げると夏衣は微笑んでいた。
「嬉しいな、そんなに紅夜くんのこと気に掛けてくれているなんて」
「いや・・・そんな・・・」
「有難う、ちゃんと覚えておくよ」
「・・・すみませ、ん」
「どうして謝るの、俺は凄く嬉しいのに」
思えば恥ずかしいことをしてしまったのだと、嵐は顔を覆って逃げ出したかったけれど、夏衣の体温がまだ側にあったから、それを振り払うことは出来なくて、途方に暮れていた。くしゃくしゃと掻き回すように夏衣は暫くにこにこと顔を綻ばせながら嵐の頭を撫でていたが、何を思ったのか不意にすっとその指先を嵐の無防備に赤い頬を撫でるように滑らせた。
「有難う」
その奥の桃色を嵐は忘れないだろうと思った。くるりと夏衣が踵を返し、今度こそ自室に戻るために歩を進めて行く。もう側に体温は無いというのに、嵐は足に根っこでも生えてしまったかのように、暫くそこから動けなかった。着ているものが例え高価なスーツじゃなくても、装備しているのが余所行きの笑顔じゃなくても、そんなものは関係無いのだとそれは暗に示す結果に終わる。
(どうしよう・・・やっぱりあのひと・・・凄ぇ綺麗だ・・・)
あぁ、頬ばかり熱くて、自分なんていう存在はなんと子どもなのだろう。
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