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あの星は見えているか Ⅶ
「なんや、嵐、遅かったやん」
それから真っ直ぐに紅夜の部屋に戻ると、紅夜は床に夏衣が用意してくれたのだという、客人用の布団を敷いているところだった。自棄に手際の良い紅夜の立ち回りをぼんやり見ながら、嵐はフローリングに腰を降ろして、近くに無造作に転がされていた枕を抱え込んで、暫くじっとしていた。その間にも紅夜はてきぱきとした動作で、シーツの皺を伸ばしている。
紅夜の部屋にはそれらしいものが何もない。備え付けだろうベッドとクローゼット、それに机があるだけの簡素な部屋だった。特別な生活臭が漂っているわけでもなく、完全なモデルルームという造りでもない、それは不思議な感慨に満ちて、そこにあった。しかしそれでいて一度見渡してしまえば、それで充分過ぎるほどだった。それ以上の興味をそそるものはどこにも見当たらない。
「普通だな、お前の部屋」
「・・・部屋に普通とか普通やないとかあるんか・・・」
「そりゃあるだろ」
「っていうかちょっと失礼ちゃうん。嵐が来たいって言うから無理矢理頼みこんだんやし・・・」
「だって夏衣さん喜んでくれてたじゃん、無理矢理って感じじゃなかったけど」
「・・・まぁ・・・」
それはそうかもしれないけれど、夏衣の笑顔を思い出しながら紅夜はひとつ溜め息を吐いた。それにしてもなぜあんなに楽しそうにしているのか、嬉しそうにしているのか、紅夜にはとても理解出来ない。特に夏衣は酷かったが、夏衣だけでなく一禾にしてもそうだ。京義はいつも通り無関心そうだったが。紅夜が眉間に皺を寄せている間に、嵐は床に顔を引っ付けて、ベッドの下に手を伸ばしていた。
「・・・何やってんねん」
「お宝発掘!」
「何を期待してるかしらんけど、何もないで・・・」
「えぇ、じゃぁお前何をオカズに夜な夜な・・・」
「下品!」
丁度机の上に置いたままにしていた英語の参考書で、諦めずに寝そべって手を伸ばしている嵐の頭を叩くと、それは予想外に良い音がした。相当痛かったのか、嵐はベッドの下に手を突っ込んだままそこで悶え苦しんでいる。そういえば紅夜自身も今の今まで気付かなかったが、手持ちの参考書は相当な分厚さだった。
「殺す気かよ!」
「・・・や、御免って・・・」
「で、どうやってん、感想は」
「え?」
「来たかったんやろ、如何やってん」
「・・・どうって・・・」
何なのだ、その抽象的な質問は、と嵐は眉を顰めたが、紅夜はそれににやりと笑っただけだった。満足に出来上がったのか、紅夜は布団からふいと離れて自分のベッドの上に腰を据えた。親元を離れて赤の他人と共同生活、なんていかがなものかとは平常から思っていたが、事実としてそれを知ると、それは案外にも普通にして温かく、思っていたものよりは悪くなさそうである。嵐はそう思ったが、何故かそれを紅夜本人の手前言いよどんで、曖昧に濁した答えしか呟くことが出来なかった。
「まぁ・・・皆良い人で」
「まぁって何やねん。ええ人らやっちゅうねん」
勿論それに紅夜は不服そうな顔をしている。確かに紅夜の言うように良い人たちなのかもしれないが、脳裏に先刻見た夏衣の妖しい微笑が過ぎって、嵐は思わず首を振った。良い人たちなのかもしれないが、一緒に生活するのは色々と無理がある。京義は確かに図太い神経をしてそうだし、余り周りに興味も無さそうだから大丈夫なのかもしれない。紅夜だって普通そうにしているが、良く言えば大らかに、悪く言えば大雑把に物事を捉えるところがあり、相当のことをたいしたことないと決め付けて日々を送っているに違いなかった。そんなふたりだからきっと上手くやっているのだ、普通の神経をしていたらきっと、こんなところに住んでいられない。なんていう非常に失礼なことを、嵐はひとりで考えていた。
「ホンマかどうか知らんけど、心配してくれてたんやろ、嵐」
「あ・・・あぁ、うん。いや、心配してたって、マジで」
「それで疑いは晴れたか?って聞いてんねん」
ベッドの上で紅夜は足を器用に折り畳んで、やはりどこか挑戦的に微笑んだ。紅夜が決して語らないその環境要因というものを、見せられたようで実は胸が痛かったことが何度もある。もっと子どもであったら良いのにと、我侭を言う前に諦めているその背中を見ながら考える。紅夜は決してここの住人たちに高校生だから仕方ない、まだ子供だから仕方ないと思われているようには見えなかった。それよりはもっと、一個人としての認識が先走っている気がして、それはとても今の紅夜らしいとも思えて好感が持てた。本当に、悪くないというのが嵐の感想で、それ以上でも以下でもなかったのだ。
「確かにナツさんは親戚かどうか疑わしい筋の人やし、他の人も全然面識なんて無かったけど」
「俺は皆のことが好きやで、あかんとこも一杯知ってるけどな」
時々思う。家族っていうのはきっとこんな感じなのかもしれないと、皆が口々に下らないことを言いながら、笑いあっている姿を、そうとしか思えなくなってきている。紅夜は良く知らないその家族のことを、時折寂しく苦い気持ちで回想しながら、今の形に重ね合わせている自分に気付く。確かに皆、赤の他人でひとつも血の繋がりなんてなかった。だからこれはただの錯覚で、見ているものは偽者かもしれない。それでも良かった。本質がどんなものだって、紅夜には関係なかった。家族の形をはじめて今手にしているのだ、それが本物かそうじゃないかなんてことは、最早関係のないことだった。
「・・・良かったよ」
だからその時喉を吐いて出た言葉に、嘘はひとつも無かった。
「お前がここで、楽しそうにしてたから」
「・・・―――」
噛み締めるように嵐がそう言うのに、思わず紅夜は頬を赤くして俯いた。一体何を言っているのだと、思わざるを得ない。普段の彼からは想像もつかないような、それは単純で明確な理由だった。はっと我に返った嵐が、また恥ずかしいことを臆面もなく言ってしまったことに気付いて、慌てふためいている。頬は同じように赤かった、もしかしたら嵐のほうが赤かったかもしれない。照れるくらいなら言わなければ良いのに、良い迷惑だと思いながら、紅夜は挙動不審に言い訳を連ねる嵐を見ながら、笑い声を上げた。
「何を言うてんねん」
「いや、だから、それは・・・」
「当たり前や、もう寝るで」
自分には家族もいて、少々心配が過ぎると思われるが、こんなに思ってくれている友達もいる。その何と幸せなことだろう、これはいつまで続くのだろうか。電気の消えた薄暗がりに思う。こういう幸せが長くは続かないことを、物事には必ず終わりというものが存在するのだということを、紅夜はなぜかしら良く悟っていた。だけど不思議にその夜は、これが永遠に続くようにも思えた。それは不思議で、不穏な夜だった。
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