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足りない甘さのお砂糖
「ちょっと染ちゃん」
呆れたような一禾の声が、扉の向こうからしている。染はベッドに体をうつ伏せたまま、それに返事をしなければならないとは分かっているが、分かっているだけで動きたくないのだ。口を動かして返事をすることすら億劫だった。暫くすると扉の開く音がして、一禾のルームスリッパがフローリングを滑って此方に近づいてくるのが、気配だけで分かった。布団をすっぽり被った体はどこも温かかったけれど、それとは関係ないところで何処か棘のあるような一禾の声に刺された指先は冷え切っていた。
「染ちゃん、寝てるの」
「・・・」
「寝てるなら仕方無いなぁ、折角デザート持ってきたのに」
「!」
今まで頑なに包まっていた布団を現金にばさりと豪快に払い落とし、起き上がった染が非常に期待を込めた目で、一禾を、ひいては一禾が持っているラムレーズンのアイスを見つめている。それに一禾は大袈裟に溜め息を吐いて見せて、それでも染がそんなことに気付く様子もなく目を輝かせているままだったので、仕方なく真っ白いお皿を染の目の前に差し出した。染が夕食も早々、デザートを出す前に部屋に引き上げてしまったので、残った染のぶんのアイスを、こうして一禾が持って来たのである。染はアイスを黙って受け取り、銀色のスプーンでじんわりと溶け出したアイスを掬った。
「美味しい?」
「・・・美味い!」
一禾も染のベッドに腰掛けて、アイスに夢中の染をじっと側で見ていた。美味しいと言ってくれるのは確かに嬉しい、作りがいもあると思う。染は案外何を食べても美味しい美味しいと言っているので、その味覚は信用ならないところは少しあるのだったが。それにしても、一禾は溜め息を今度はそっと吐きながら思う。染は隣でアイスしか見えていないのか、必死にそれを崩しては口に運んでいる。染がいつもならだらだらと時間を潰す談話室から、逃げるように部屋に戻ったそのわけを、一禾は何となく分かっている。
「・・・一禾、お前天才だな・・・」
「ありがと、お皿貸して」
綺麗に皿の上のものを平らげた後に、染は深く感心したように呟いた。それに全く抑揚の無い声で一禾が答える。染から受け取った皿を、取り敢えずは机の上に一禾が置くのを、染は目で追いながら何となくその背中が怒気を孕んでいるのに気付いてしまった。染は大体のことには疎いのだったが、そういう人の心の機微には特別敏感だった。だから一禾が振り返った時、先刻までアイスを食べて満足そうにしていた染は、何故かベッドの上縮こまって、叱られている子供のようになっていた。
「・・・どうしたの、染ちゃん」
「お、怒ってる・・・いちか・・・」
「別に怒ってるんじゃないよ、呆れてはいるけど」
「・・・おんなじ・・・だし」
「違うと思うよ」
こちらの機嫌を恐る恐る伺うように染が睫毛を瞬かせながら、上目遣いで小さく反論する。一禾はそれに今日何度目かの溜め息を吐いて、あからさまに叱ってやるのは止めようと思った。こういう状態の染にあんまり厳しいことを言っても聞かないどころか、下手をすると泣き出すことになりかねないので、そうするとどちらが悪いのかもう分からなくなり、ことの始末が曖昧になることが多かった。良い大人の癖に、染は怒られると結構な高確率で泣き出すことがある。子どもじゃないのだからもう止めろ、と言ってもそれの効き目があったことがない。もう一度染の隣に腰掛け直すと、挙動不審に視点の定まらない染が、気にしないようにはしているらしいが、気になるのか、こちらにちらちらと鬱陶しいほどの視線を遣ってくる。
「言っとくけど、宮間くんは女の子じゃないよ」
「・・・み、見たら・・・分かる・・・」
「じゃぁなんでそんなに」
「・・・だって、ちょっと・・・怖そう・・・だし・・・」
「・・・それで」
こくりと染が力なく頷く。あ、泣くかもしれないと一禾が思った瞬間には、染は目に一杯涙を溜めていた。立ち上がって机の上に置いてあったティッシュを箱ごと掴んで染に渡すと、染はぼろぼろと涙を零しながら、それを受け取った。しかしそれも一時のことだったのか、涙をティッシュで拭うと鼻と目は赤さが抜け切らないが、染は自棄にさっぱりとした顔に戻っていた。染は兎角女の子が苦手だったが、初対面の人間とも高確率で上手くいかなかった。時間をかければ慣れるのは、普通の人と同じ原理だったが、染の場合心を開くのがとんでもなく遅い。一度や二度会った程度では、もしかしたら顔をちらちら見ている程度で、話そうともしない。一禾は染の側で何度もそういう状況に置かれているから分かるのだ。
「まぁ、でも良い子だよ。それに紅夜くんの友達なんだから、あんまり邪険にしちゃ駄目だよ」
「してない・・・」
「あぁ、そう。まぁ良いけど」
「・・・」
呆れたように一禾が言うと、染はちらちらと遣っていた視線を床に落として、そっと左手を伸ばして一禾の服を少し摘んだ。雰囲気だけで一禾がこちらを向いたが分かったが、染はそれにどんな顔をしたら良いのか分からなくて、床を見つめたままだった。
「どうしたの、染ちゃん」
「冷たい、一禾」
「・・・あのねぇ・・・」
こんなに優しくしているのに、染は全くこちらを見ようともせずに、もっと甘やかせと我侭に言う。本当は少し厳しくちょっとは怒鳴ってやるつもりで部屋に乗り込んだ一禾だったが、染に絆されて仕方なく嗜める程度に留めている。それから考えても充分に優しくしているし、一禾の中ではこれ以上無いくらいの譲歩である。しかし染はそれでは足りないなどと、甘えたことを言うのだ。完全に一禾が呆れ返った声を出して、左手は震えたが、一禾の服を染は決して離そうとしなかった。
「これ以上どこをどう優しくしたら良いんだよ・・・」
「じゃなくて、へ、返事とか・・・態度とか・・・冷たい、し・・・」
「・・・そりゃ少しはそうなるんじゃないの、染ちゃんが大人気ないのが悪いんじゃない」
「まだ子どもだし・・・」
「よく言うよ、成人してるくせに」
確かに一禾のそれは正論に違いなかったが、染がまたもや目の回りを赤くさせて、唇を振るわせ始めたから、不味いとは思ったが、染の方が幾らか早かった。ぼろりとそこから大粒の涙が落ちるのに、そう時間はかからない。しかし一禾も慣れたもので、眉を顰めたままもう一度ティッシュを箱ごと染に渡した。染は何故かそれを嫌がって、ティッシュの箱を奪うと一禾の背中をそれでばしばし叩き出した。
「あぁ、はいはい、御免ねぇ」
「なん、だよ、一禾の、の、ば、ばか!」
「良いから泣き止みなよ、いい大人が見っとも無い」
「だ、だから、まだ、子ども、なんだし・・・!」
「あっそう」
「酷、つめ、たい!」
ばしばしと力無く染が抗議の意を込めて背中を叩くのに、一禾は呆れたまま溜め息を吐いた。
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