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ルビーフルーツ Ⅰ

不眠の時期があったせいで、一時はバイトを止めようかと考えたこともあったが、何分先立つものが京義には兎角必要だった。だから年齢を少々誤魔化して、とはいっても店長だけは知っているのだったが、給料が割り増しになる深夜働いているのである。夜こんなにも長い間起きていることを、特別苦痛に感じなくなったのはいつ頃からだろう。京義の記憶にはもう既にそれがない。ホテルが夕食時にバスと電車を乗り継ぎ、眠らない街の一角にある、ひっそりと落ち着いた佇まいのミモザに着く。12月の気温は一桁にまで落ち込んでいて、京義はきっちりと巻いたマフラーにすっぽりと鼻から下を埋めていた。かじかんだ指先をコートのポケットで擦り合わせて暖を取りながら、急いで裏口から店の中に入った。 「・・・あれ、京義くん」 「・・・ぁ」 目立つ若草色の髪をした大学生が、京義の飛び込んだスタッフルームで着替えていた。名前は聞いたと思うが、何分余り興味の無いことはすぐに忘れてしまうので、京義の頭の中にはインプットされていなかった。しかし相手が名前を呼んだということは、覚えていても良いはずだと思って、京義はじいっとその顔を眺めていた。するとなぜか相手はあたふたと動揺しだして、頬を赤く染めて強引とも思える仕草で京義から目を反らした。ここは学校ではなく、バイトといえども一応職場なのだから、失礼になってはいけないと思って常々これでも京義は京義なりに努力をしていたが、もしかして気を悪くしたのかもしれないと、京義は何か弁解しようとしたが、日頃から釈明する機会がまるで訪れないせいなのか、一体こういう時何と言って良いのか、全く分からなかった。 (超・・・見られてる・・・!) 背中にびしびしと視線を感じながら、京義の目にはスタッフの大学生としか映っていないキヨはロッカーの前で俯いていた。店長に渋い顔をされたのもあって、最近は深夜にシフトを入れていないせいか、京義と会うのも久しぶりだった。今日だってもうすぐ帰るところだったのに、仕事の間充電していた携帯がまだ赤く光っていたから、コードを抜くに抜けずにそこで暫く暇を潰していたのだった。はっとキヨは我に帰って、ロッカーを開けた。そこの奥に設置されている姿見には、カーキ色のコートを着た自分が映っている。慌ててシャツをきちんと延ばして、気にもしていなかったコートをばしばしと叩いてほこりを落とした。そこで改めてもっとお洒落な格好をして来れば良かったと後悔したが、もう遅い。 「あ、あのさ、京義、くん」 「・・・はい」 「あ、あの・・・好きな食べ物とか・・・あるのかな?」 「・・・はぁ」 眩し過ぎて直視出来なかったが、久しぶりに実物を見ると、やはりキヨにはそれが妖精のようにしか見えなかった。しかし、京義は自分がそんなファンシーなものと重ね合わせられているとは露知らず、自棄に子ども扱いしたような口調で話すキヨの質問の意味をぼんやりと考えていた。そういえば、前にもこんなことを聞かれたことがあった。ふとそれに気付いた瞬間、ぱちりとスイッチが入ったように、京義の頭の中で映像が重なった。自己満足と共に薔薇を渡して行った、あの時の大学生だったのか。しかし名前までは本当に脳内に残っていなかったのか、どうも思い出せずに、それには首を捻るばかりだった。 「・・・何で、そんなこと聞くんですか」 「いや、あの・・・良かったら・・・今度・・・ご飯でも、一緒にどうかなって」 「・・・ご飯・・・」 「ご、御免ね!なんか、その、迷惑だったら、断わって!」 頬を染める、なんて可愛いものではなく、完全に顔を真っ赤にしてキヨは歯切れが悪く、しかし確かにそう言い放った。言い放った後に、なんてネガティブな思考だと、自分でも思わざるを得なかった。嫌でも何でも取り敢えず奢るから一回来てくれ、くらい言えたら良いのにと、と下唇を噛みながら思う。そういえば、年上のお姉さまがたを何人もパトロンにしているらしい友人は、一体どんな方法で女を口説き落としているのか、あの男に教えを請うのは非常に不本意ではあるが、こんな時のために一度くらい聞いておいても良かったのではないだろうかと、キヨはまた要らぬ後悔を重ねていた。 「・・・ご飯・・・じゃないと駄目ですか」 「え・・・ど、どういう・・・」 「俺、パフェが食いたいんですけど」 「・・・ぱ、ぱふぇ・・・?」 そういえば、この間喋った時京義が『ワルツ』のマフィンを食べていたのを、キヨははたと思い出した。見た目もそうだったが、食べているものがマフィンだなんて、なんて期待を裏切らないのだと、その時は思ったのだったが、京義の返答がそれを全く覆さない愛しい、少なくともキヨにはそう思えた、ものだったので、馬鹿みたいに反復した後暫く自体が飲み込めずに、ぽかんとしてしまっていた。するとその沈黙を京義のほうが今度は訝しく感じたのか、少しだけ首を傾げた。 「駄目ですか?」 「い、良いよ、全然!」 「・・・すみません」 「じゃぁ、一緒に行ってくれるんだ、よね?」 「別に良いですけど」 口調は相変わらず京義らしい淡々とした冷たいものだったのだが、キヨは全くそれに構う様子も見せずに、というか単に気付いていないのかもしれないが、背中を丸めてただ歓喜に震えていた。あの喋ることもままならなかった、今まともに話せているのかという疑問はなぜか全くキヨの中には浮いてこなかった、妖精とデートの約束を取り付けたのである。これを進歩と言わず、一体何と呼ぶのだろう。京義本人がその約束のことを如何理解しているのかは、今のところは一応置いておくとして。 「じゃぁ・・・いつにしようか、今週末は?日曜とかのほうが良い?」 「・・・日曜だったら何も無いんで、大丈夫ですけど」 「じゃぁそうしよう、それまでに俺調べとくよ、美味い店」 「・・・はぁ・・・」 先ほどまでの赤い頬とは一転、今度は満面の笑みでキヨがてきぱきと先のことを決めていく。京義はそれを聞きながら、どこかに書いておかなきゃ忘れるなと思って、スタッフルームのテーブルの上にあったメモ用紙に、今週末の日曜の日付とパフェと書き足した。名前も忘れると色々厄介にはなってくるが、約束なら尚更のことである。後々面倒なことにならないように、と京義は考えていたが、それを見つけたキヨは少し迷ったが、京義がメモ用紙を台紙から剥がすのに、それを横から手を伸ばして奪うと、ボールペンでその下に電話番号とアドレスを書いた。そして無表情のままそれを見ている京義の手にメモを返した。 「それ俺の。京義くんのも・・・その、良かったら教えて欲しいんだけど・・・」 「・・・」 「や、あの、ほら、時間とか場所とか、他にも決めなきゃいけないことあるし・・・ね・・・」 「・・・はい」 断わられるかとも思える沈黙の後、京義は渋々といった雰囲気でも、快くといった雰囲気でもなく、ただ事の成り行き上逆らうことも特にないと思ったので、メモをもう一枚剥がすとそこに自分の連絡先を書いた。そして何故か呆気に取られながら目を輝かせているキヨにそれを渡した。 「・・・良いの・・・?」 「何か悪いことでもありますか?」 「・・・や・・・だって・・・」 それを握り締めて打ち震えているキヨに、京義は意味が分からずただ首を傾げるしかなくなっていた。 (やべ・・・ちょっと泣きそう・・・だし・・・)

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