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ルビーフルーツ Ⅱ
「じゃ、じゃぁ、連絡するから・・・ね」
「はい」
殆どデフォルトに近い無表情のまま、京義がそれに何の色もついていない声で短く返事をするのに、ただそれだけのことに無意識に口角が上がってしまう。それを見つけて京義が幾分か訝しげな表情を浮かべたけれど、キヨは目の前のことにて一杯だった為なのか全く気付いていなかった。京義がピアノを弾いているのを、遠くで見ているだけだった。本当にそれだけだったのだが、その距離は随分と遠くて些細なことでは埋らないような気がした。近付いてその京義の本質というものに触れると、ますますそれが輝いて見えて距離は埋るどころか開く一方で、本当に今だって京義は手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、おかしなことに京義のその容姿も一因なのだろうとは思うが、全く現実味がそこには存在していないのだった。それが京義特有の浮世の人間らしからぬ雰囲気に触発されているのだということだって、ちゃんと分かっているのに。
(・・・もしかしたら・・・ちょっとは触れるのかも・・・)
妖精だと思った。いや、今だってほんの少しは妖精かもしれないと思っている。それくらい京義は、ぼんやりと光る白い蛍光灯の下、その時人間としてらしからぬ空気を纏ってそこに立っていた。キヨは殆ど勢いに任せて、そっと手を伸ばしてみた。本当は頬かどこかに触りたいところだったが、流石にそれは気味悪がられるのがオチであるという一応の常識を盾にして、頭くらいなら触ることも可能かもしれないと弱い脳を回転させて考えていた。確かめてみたかった。自分自身の感覚で、京義がそこに人間の体重と質量を備えて、立っているのだという事実を確かめてみたかった。ただ本当にそれだけの理由だった。後から考えるとどう考えてもその時の自分はどうかしていたと思う。京義は突然キヨが手を伸ばすのを、避けるわけでもなく無視するわけでもなく、それが自分のほうに迫ってくるのを、まるで他人事のようにゆっくり目で追っていた。
「・・・ちょっと何やってるの、笹倉くん」
「!」
もう少し、ほんのもう後何センチかのところで、険しいが妙に落ち着いた店長の声がいつもより幾分低めにスタッフルームに響いて、キヨはそれに分かり易く背中を震わせた。瞬く内に凍った空気の中で、京義だけが事情が良く分からずきょとんとしている。キヨは恐る恐る振り返って入り口に目をやると、そこには腕を組んで眉間に皺を寄せどう見ても怒っているらしい店長と、その後ろで体を半分に折り畳んで笑いを堪えている片瀬の姿があった。いつからあそこでそうしていたのだろうか、それを考えると恥ずかしさやら憤りやらで、キヨはまた顔を真っ赤に染めて、慌ててふたりから強引に視線を反らした。
「じゃ、じゃあ、俺もう帰ります。お疲れさまでしたー・・・」
「ちょっと・・・」
携帯はまだ赤い光を点していたままだったが、キヨは充電が終わるのを今まで待っていたのに、電源を容赦なく引っこ抜くと、鞄の中にコードと共に携帯を無造作に投げ入れ、自棄にギクシャクした不自然な動作で、スタッフルームを逃げるように後にしようとした。店長はそれを止めようとしたがキヨはそれよりも早く扉を押して殆ど飛び出すように外に消えてしまい、呼び止めた声だけが虚しく部屋の中に響き渡っていただけだった。片瀬はそれを見ながらいよいよ笑いが堪え切れなくなったのか、店長の後ろでスタッフルームの壁を力任せにどんどんと叩きながら、噛み殺したような笑いを時折漏らしていた。
「・・・全く・・・」
「いや・・・店長、酷いすよ、こんな面白いこと何でもっと早く教えてくれなかったんすか」
「だからひとつも面白くないよ!困ってるんだよ、こっちは」
「やー・・・アイツ馬鹿ですねー・・・」
「京義くん、大丈夫?」
「・・・はぁ」
ぼんやりと依然ひとりだけ事情が飲み込めずにそこに取り残されている京義の顔を、店長は神妙な顔をして覗き込むと頭をぐしぐし撫でた。先刻キヨが一世一代の決心と共に手を伸ばしたその先にあることを、そうして簡単に成し遂げてしまったのである。よく事情が分かっていないらしい京義の口から、曖昧な返答が漏れるのに、片瀬はまた可笑しそうに噴出している。店長はもう一体誰にその怒りを向けたら良いのか分からなくなっているのだろう、苛々を含ませた目で後方の片瀬を睨んでいる。
「・・・やー・・・しっかし、アイツ京義みたいなのが趣味だったんだなー・・・」
「おかしい、絶対おかしい。だってこの間まで彼女が出来ないって不貞腐れてたのに」
「まぁまぁ、つっても京義、良く見りゃ美少年だし?まぁ分からんでもな・・・」
「ちょっと、片瀬くん!君までへんなこと言うのはなしだからね!クビにするからね!」
「酷くないすか、それ。それに俺の好みはもっと年上の美人ですから!」
「聞いてないよ、誰もそんなこと」
片瀬にまで頭をぐしゃぐしゃと撫でられて、確かに鬱陶しかったのだが、それを払うことも立場上出来ずに、もう争点が違ってきているふたりの間にいつの間にか挟まれている。
「そういや、お前はどうなんだよ、京義」
「・・・はぁ・・・」
「ちょっと・・・片瀬くん変なこと聞くの止めてよ」
「いや、店長これ割りと大事ですって!笹倉はああ見えて、つか見たまんま、真面目で良い奴じゃないですか」
「・・・まぁ、そりゃそうだけどさ・・・」
「悪い気しないんじゃねぇの、ホントはさ。なぁ、京義。そこんとこどうなんだよ、お前」
完全に片瀬がことを面白がっているのは分かっているのに、京義の反応も気になる店長は、渋い顔をして事の成り行きを黙って見ていた。しかし渦中にいるはずの京義は完全に勝手に進行してゆくことについていけなくなっていて、どうやら自分の話をしているらしいことは何となく分かっていたが、もう面倒だからという理由で特別それに関して考えることを早々に放棄していたところだった。だから片瀬がその時含み笑いと共に一体何を言わんとしているのか、京義には分からなくて、首を傾げることしか出来ない。馴れ馴れしく、というか片瀬はもう京義にすっかり気を許していたのだったが、肩に手を回されて、京義の無防備な頬を突いていた片瀬は、それに更におかしそうに笑みを深くし、回していた腕を解いて、京義の肩をとんとんと叩いた。
「だからさー、アイツはつまるところお前に気があるわけじゃん」
「ちょっと片瀬くん!」
「気があるって分かるよな、京義」
「・・・はぁ」
「京義くん、聞かなくて良い、別に返事しなくて良いんだから!」
「お前はどうなのよ、笹倉のこと。気の良いお兄さん?それともそれ以上かな?」
「・・・別に・・・―――」
何か答えようとした京義を後ろから庇うように突然店長が自らの方に引き寄せて、にやにや笑いを崩さない片瀬から強引に距離を取った。
「ちょっと店長、邪魔しないでくださいよー」
「それ以上変なこと言ったら駄目!京義くんが毒される!」
「良いじゃないすかー、ちょっとくらい。それにもし今後そういう雰囲気になっちゃったら、予備知識ないと色々困りますって」
「だから、変なこと言わないでってば!京義くんまだ16歳なんだからね!」
「・・・」
「・・・」
突然のことに一瞬冷たい沈黙が降り立った。
「店長、それ普通に違法じゃないすか」
「今良いんだよ、そんなことは!」
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