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ルビーフルーツ Ⅲ

その日は朝からおかしかった。染はそのキヨの様子を見ながら、げんなりした。キヨがハイになっていることは極稀で、大体は口を捩じらせて一禾の愚痴を言いながら恨めしそうにしているか、呆れたように染を引っ張っているかどちらかであった。こうして改めて考えてみるとキヨの日常は、そうしてこの傍迷惑な友人たちのために費やされているのである。染はそれを知っているから、キヨの様子が可笑しいのに、自分ももう少ししっかりしないといけないなとした唇を噛みながら弱弱しく決心を固めた。 「・・・おはよ、キヨ」 「おぉ、おはよう!染!今日もお前は眩しいな!」 「・・・あ、・・・ありがとう・・・?」 眩しいという形容詞が果たして賛美の言葉なのか、染には良く分からなかったが、兎も角キヨがこれ以上ないくらいの良い笑顔だったので、これは多分褒められているのだろうと思いながら、気付けば曖昧に返事をしていた。しかしキヨのほうはそんな染の困惑した様子を少しも省みることなく、頬を上気させてどこか全く違う方向を蕩けた目で見ている。一禾が側に居れば、確実に眉を顰められている状況だ。染も出来ることならそんなキヨと同類と思われたくはなかったし、他人のふりをして遠くに座りたかったが、大学の中ひとりでうろうろすることの危険さを誰より一番分かっていたのもあり、諦めてそっとキヨの隣に腰を据えた。 「なにかあったの・・・キヨ」 出来れば聞きたくなかったが、この状況を打破するためにはまたそれしか方法がないように思えて、染は半ば溜め息交じりにそう小声で漏らした。するとキヨは満面の笑みのまま、隣に座る染の背中をばしばしと勢いよく二度ほど叩いて、痛いという染の抗議を軽く無視して顔を伏せると、そのままクツクツと笑いはじめた。これはいよいよだと思いながら、染は椅子を若干ずらして通路側に寄せた。周りの生徒の好奇の目による視線が痛いが、それがキヨよりもむしろ自らに注がれていることを、染は何か別のことと勘違いしている。やはり聞かないで放っておけば良かったと染は後悔したが、そんなものはこうなってみると後の祭りに過ぎなかった。 「良く聞いてくれた・・・」 「うん・・・自分でも良く聞いたと思う」 「俺な・・・遂に」 「遂に?」 「あの妖精さんとデートの約束を取り付けたんだ!」 ここぞとばかりにぐっと拳を握って、目をきらきらと輝かせながらキヨが言ったそれに、これはまた突飛なことを言っていると染は青ざめたが、良く考えるとこの話題はこれまでも何度か繰り返してきたものだった。妖精の実態を染は、キヨからの偏った情報でしか想像することが出来ずに良く把握していないが、それはどうやらキヨのバイト先にいるピアノを弾いている可愛い女の子らしいという実に現実とは大幅に掛け離れた誤解だった。キヨはその子のことを妖精であると勝手に断言し、染はそれを妖精に見間違えるような可愛い女の子であると勝手に解釈している。そもそも染に女性的な美しさや愛らしさというものを愛でる感性がないものだから、一口に可愛いといっても一体どんな具合なのか、いまいち想像がつかないのも事実だった。取り敢えずいつも朝のニュースに出てくるお天気お姉さんを、これもまた勝手にだが想像している。 「・・・へー・・・良かったじゃん」 「あぁ・・・これは輝かしい未来の第一歩・・・かな」 「そうかな・・・」 「染、そう人の幸せを妬むもんじゃないぜ!」 「・・・や、だから・・・良かったって言ってんじゃん・・・」 自棄に爽やかな笑顔で、キヨは青ざめている染の肩をぽんぽんと宥めるように叩いたが、そんなのは染にとっては問題にもならない大きなお世話というやつである。キヨはいつもしっかりとした客観的な立場と意見を持っており、誰に対しても平等で、かといって冷たいわけでもなく世話焼きの性格がそうさせるのか、誰よりも親身になってくれていると思う。最もキヨに言わせて見せれば、一禾が染の世話をキヨに押し付けたせいで、今の包容力を生んだという経過を辿ることになるのだったが。それが如何したことか、この話題になるとキヨは全く周りの状況が見えていない。きっと本人が言っているほどそれは重大事項でも何でもないのだろうと、だから勿論その先に明るい未来など待ってはいないのだろうと、染は自分でも恐ろしいほどの冷静さで溜め息を吐いた。 「それがな、妖精は何を食べたいって言ったと思う?」 「・・・妖精って食事するんだ、初耳」 「パフェだぜ、パフェ!可愛過ぎるだろ!」 「・・・ちょっと狙い過ぎだと思うけど」 「何だ、お前!一禾でももうちょっと良い反応するぞ」 「一禾はもっと平気で酷いこと言うよ」 本当に一禾に聞かせてやりたいと思いながら、流石にキヨが可哀想なことになりそうなので、結局一禾にはこの話題を一度も振っていない。それにキヨのほうもそれを薄々感じているのか、それとも無意識的に避けているのか、一禾がいる前では不思議とこの話を切り出すことはなかった。キヨは誰にでも平等で、誰にでも親切で、誰にでも親身になってくれる。だけどその根底にあるものは一体何だろうと、染は時々ふたりから離れたところでぽつんと立っているような、まるで置き去りにでもされたような疎外感を感じることがある。そんなはずはないのに、ただのお得意の被害妄想だと分かっているのに、染はそれを中々上手く解釈出来ずに引き摺っている。キヨが一禾の前でこの手の話をしないことにはじまる相違というものを、そして染は自分が酷く恐れているのを知っている。キヨの根底に居座っているものを、知りたいけれど理解したくはないのだ。 「その子と付き合うの、キヨ」 「・・・馬鹿、お前俺はそんな下品な心で近付いたんじゃない!」 「・・・や、別にそうは言ってないけど・・・」 「何だろうな、もっと話してみたいとか、もっと良く知りたいとか、そういうことだ。うん、そう」 「・・・ふーん・・・」 付き合うことが染には良く分からない。言いながら、染の疑問に答えるというよりは、まるで自分に言い聞かせるように言いながら、ひとりで頷いてキヨは納得している。それを見ながら染はその良く分からない気持ちのまま、曖昧に相槌を打ってやり過ごすことにした。異性の手を握って何が楽しいのか良く分からない。だけどふたりは特別なのだという証明として、そこに与える名前が恋人なのだとしたら、それが欲しいのは何となく分かる気がした。ふたりということは決してひとりではないということだ、それはとても甘美な響きを持って、しかし永遠に得られないものである事実も伴って、染の弱い心を揺さぶるのだった。 「そ、だからお前との約束は守るよ」 「・・・え?」 ずっとおかしいキヨに意図的に視線を合わさないようにしていた染だったが、不意にキヨが落ち着いたトーンでそう言うのに、聞き返しながら振り返ってしまった。するとそこにはいつものどこか達観し、諦観しているキヨが腰を椅子に据えたまま、唇を歪めていた。 「何だ、お前。散々自分で言っといて忘れてんのかよ」 「・・・か、彼女は作らないって言う・・・?」 「あ、やっぱ覚えてんだ」 「・・・キヨ・・・」 自分でもおかしなことを言っていると染は分かっていたが、最早口に出すことくらいしか出来なくなっていたことも事実だった。キヨはそれを聞くたびに唇を捩れさせ、どこか渋い顔をしながら、はじめこそ大学生が彼女を作らない学園生活を一体どのように謳歌するのかと染を呆れたように諭すのだったが、それに懲りずに強訴を繰り返していると、面倒臭いのか諦めたのか、ひらひらと手を振りながら、話半分に承諾してくれていた。いつも、染が決まってその話を切り出す時には。 「安心しろ、妖精にきっと性別はないから!」 「・・・え?」

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