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ルビーフルーツ Ⅳ

その日は朝からよく晴れていた。ちゃんと目覚ましをかけて、珍しく時間通りに起きた京義は、音によって睡眠を遮断された頭のまま、ベッドに腰掛けて暫くぼんやりとしていた。数日前に連絡先を交換したばかりのキヨからメールが届いており、約束は昼からとなっていた。京義はまだ時間に余裕があることを確認すると、立ち上がってクローゼットを開いた。そこには制服とそれから少しの私服がかかっている。ここには何も持ち込んでいないから、ここに来てから京義が自分のバイト代で揃えたものである。何でも良いかと手を伸ばして、自分でも良く分からないままに、一瞬躊躇した。 「・・・ーーー」 ベッドとクローゼット程度しかない部屋の中で、京義は静かに途方に暮れていた。 時間に余裕はあったはずなのに、着替えて部屋を出る頃には、約束の時間が迫っていた。京義はいつもの緩慢さに比べると幾分か急ぎ足で、階段を駆け下りた。ホテルの中では誰にも会わなかったけれど、何となく休日らしい穏やかさに包まれている。何か食べたいと不意に思ったが、パフェのこともあったので、京義は談話室に寄ることは止めにした。談話室にはいつも大抵一禾と夏衣がいて、休日ならば染もいる可能性が高かった。それも理由のひとつだったが、何か食べたければ一禾に言えば、何かしらを用意してくれるのは分かっていたけれど、何の用事でどこに出掛けるのか、しつこく詮索されそうでそれはそれで面倒だと思った。何となく、一禾は放っておいてくれそうだけれど、夏衣は目を輝かせてこちらの踏み込まれたくない領域に簡単に踏み込んできそうだったから、それは夏衣を喜ばせているようで単純に嫌だった。 そのまま靴を履いてエントランスから外に出る。気温は随分と低かったが、太陽が出ていて日差しは僅かながら熱を持っているような気がした。エントランスでは当番なのだろう、ポーチを掃除する紅夜の姿があり、京義はそれにちらりと目をやると、乱れたマフラーをきちんと巻き直した。 「あれ、京義」 「・・・おう」 紅夜は京義を見つけると、少しだけ驚いたように目を丸く見開いた。用事のない休日は、京義は大抵自分の部屋に籠って音楽を聴いているか、眠っているかの二択しかないことを、紅夜は既に知っていたからである。誰にも会わずにホテルを抜け出せると思っていた京義は、最後の最後で紅夜に捕まって、どうしようもなかったから、曖昧に返事をするしかできなかった。 「おはよう、どっか行くん?学校?」 「・・・いや」 首を傾げて紅夜が口から真っ白い息を吐き出す、いつからここで掃除をはじめているのか分からないが、紅夜は耳まで痛々しいほど赤く染めていた。その足元には枯葉が彼なりの几帳面さを表す尺度として、きちんと集められている。京義は一瞬それに何と答えたら良いのか分からずに、ただ口篭るように否定した。その曖昧な答えと共に、京義の口からは紅夜と同様白い息がすうっと漏れて出た。 「そやなぁ、学校やったら制服で行くもんなぁ」 「・・・」 「やったらバイト?こんな時間から珍しいなぁ」 「・・・いや」 往々から京義は休日でもピアノが弾きたいと思ったら、わざわざ学校まで出向くことを惜しまなかった。それで紅夜は勘違いをしてそんなことを言ったのだろう。それにバイトの時間は大体深夜と決まっている。それは「ミモザ」のバーとしての営業時間の問題で、昼間はただの喫茶店になるからだった。京義は喫茶店の時間に「ミモザ」には行ったことがないし、そこで演奏をしたこともない。理由は何となく分かるけれど、喫茶店で演奏してはいけないのはなぜなのかについて、店長から説明された訳ではなかったから、本当の理由については良く分からなかった。ふいに京義は、自分がホテルから出るときはそのどちらかに用がある時がほとんどで、それは学校に行く以外はホテルから出ようとしない染の姿と被るようで、忌々しく舌打ちをしたい気分になった。しかし京義は我慢して、先ほどより調子の落ちたトーンで、それにも否定の意を示した。 「ほな、どこ行くん」 「・・・デート・・・」 なぜかその時、京義の頭の中にはにやにや笑う片瀬の顔が浮かんでいた。きっと片瀬がここにいたら、意味深に京義を肘で小突いて、にやにやしながら黙っているのだろう。なぜその時に限って、片瀬のことを思い出したのか分からない。寒さとは違う理由で耳まで赤い顔をしたキヨが「ミモザ」から走り去った後、店長が本気で怒るまでの間、散々からかわれ続けて、京義もキヨとのそれが、ただバイト先の先輩とパフェを食べに行くという用事だったはずなのに、端的に言えばそういうカテゴリーにはいるのかもしれないなんて、毒された頭で考えるようになってしまった。それはもう絶対に、にやにや笑っていた片瀬のせいでしかなかった。 「は?」 「・・・じゃ」 何か煩く詮索されるのも嫌だったので、京義はそれだけ言うと紅夜に軽く手を振って、颯爽とホテルを後にした。紅夜は箒を手に持ったまま、行ってしまった京義の背中に呼び止めることも、聞き返すことも出来ずに、結果としてただ唖然として見送ることになった。 ガラスには自分の姿が薄っすらと映っている。流石に気合を入れ過ぎても引かれるだろうと思ったから、ある程度外してきたつもりだったが、それが裏目に出ないことをキヨはただひたすら考えていた。円柱に凭れて、エンジニアブーツの足先を見つめる。時間は先ほど確認した。まだ30分も前だった。休日の都内はどこもきっと混んでいて、ここも例外ではなさそうなだけである。誰もが他人のような顔をして、キヨの目の前を先刻から横切り続けていた。待つ間が楽しいのだ、貴方のことを考えるから、そんな馬鹿なことを言ったのは一体誰だったのだろう。ふうと溜め息を吐くと、夜でもないのにそれが白く残る。こんな寒い日に男ふたりでパフェを食べに行くなんて、その為に新しく服を買ったりするなんて、30分も前から待っていたりするなんて、でもそれの一体どこが馬鹿馬鹿しいのか、キヨには良く分からないのだ。 (・・・あー・・・何そわそわしてるんだろ、みっともねー・・・) (でもやっぱ一禾に服の相談?とかしとけば良かった・・・?) (いや、あいつの勝負服いっつも決め決めだもんな、参考になんねぇわ) ガラスに映る自分が苦笑いを浮かべていて、キヨは聞かなくて良かったと思い直した。たまに女の子とのデートの帰りなのか、これから行くのかどうか分からないけれど、一禾は大学にも平気でブランド物の上下揃いのスーツでやって来たりしていて、教授の服より数倍値段のするそれで普通に授業を受けていることもあって、何をどう聞いたって参考にならないことは明らかだった。どうせ一禾に聞いたところで、一禾の持っているような服は自分には揃えられないし、そんな服は似合わないし、きっと京義の隣を歩くのにも相応しくはないだろう。どんな服なら相応しいのか、どんな自分なら相応しいのか、キヨにはまだ分からなかったけれど。 (でも、京義くん、来てくれる、んだよなぁ) (それってちょっとは、俺にだって、チャンスがあるって、ことなんじゃない) そうやって自分を奮い立たせておかなければ、気を抜いたら逃げ帰ってしまいそうで怖さも多分あった。勿論楽しみで浮かれている自覚もあったけれど。そうやってキヨが自分のことを自分で鼓舞した後、顔を上げると遠くに見える広告塔の電子広告がぱっと切り替わって、人気モデルの口紅のCMが流れ出したのが見えた。

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