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その日の訳について
「一禾さーん!」
怒涛の大声とともに談話室の扉が開かれて、そこでキッチンの掃除をしていた一禾は顔を上げた。すると耳を真っ赤に染めた紅夜が、箒を片手にそこに立っていた。紅夜は玄関の掃除をしていたはずだったが、この様子では何かイレギュラーなことでも起こったのだろうか。それにしても紅夜の耳と鼻はおそらくは外の冷気に当てられたため、真っ赤に染まっていて、何だかそれは痛々しいほどだった。そう思う一禾は冷水に濡れるゴム手袋を外さない。一瞬それに返事をしかかって、振り返った一禾は眉間に皺を寄せる。部屋の中に箒を持ち込むなんて頂けないと思ったからだったが、いつもならその微弱な表情の変化に敏感なはずの紅夜は、今日は周りが如何も見えていないのか、赤く染めた目の周りと頬のまま、ダイニングテーブルをばんと叩いた。青色の毛叩きで談話室を掃除していた染が、それに分かりやすく背中を丸める。
「・・・どうしたの、紅夜くん」
それに溜め息を吐きながら、シンクを掃除していたため出しっ放しだった水を、取り敢えず蛇口を捻って止めた。談話室がそれだけで随分と静かになる。染も紅夜の向こう側で、一体何事なのかと様子を伺っている。緑色のゴム手袋が、頑固に自分の手に張り付くのを剥がしながら、自分の反応など気にする様子もない紅夜を見ながら、一禾はもう一度溜め息を吐いた。
「聞いてや、京義、京義が・・・!」
「あ、そうだ。あの子まだ起きて来ないね、そろそろ起こさなきゃ」
「俺見てこようか、一禾」
「お願いしようかな・・・―――」
「違う!違うねん!」
それよりも床の上に放置された箒のことばかり気になる一禾は、染に視線をやりながらもちらちらと紅夜の足元に目をやっている。しかし依然として紅夜は全くその視線に気付く様子はなく、頭を抱えたまま少々大袈裟とも思える動作でぶんぶんと首を振った。その紅夜の言っている一体何が違うのかさっぱり分からなくて、確かめるつもりで染のほうを伺うと、談話室に昔からあったらしい、夏衣が暇潰しに読んでいる、全くジャンルが統一されていない本ばかりが並ぶ棚の中を掃除していた染は、一禾のそれに呼応するように首を傾げる。どうやらこの様子では、染も良く分からないらしい。紅夜の言いようでは京義に何かあったのか、それにしても普段は歳の割に落ち着き過ぎているといっても良いほどの紅夜が、ここまで慌てるようなことは珍しい。これは事態も深刻なのではと、一禾は執拗に気にしていた箒から目を反らすことに決めた。
「どうしたの、京義がなに?」
「で、デートに行くって・・・出て行ってん!」
「・・・デート、京義が?」
「そう、な!可笑しいやろ?」
それに一禾よりも速く染が反応し、紅夜はなぜか凄まじい勢いで振り返って、染にあらん限りの同意を求める。その剣幕に完全に気圧されて、頭でそれを良く考えても居ないうちに染は頷いてしまっていた。何を年下の男の子に怖気づいているのだと一禾はそれを見ながら、呆れてまた深く溜め息を吐いた。しかし思っていたよりことは深刻も何でもなさそうで、紅夜がここまで取り乱しているその経緯は読めないが、別段心配することでもなさそうなことに、一禾は一応ほっとしていた。曖昧な返事を繰り返す染の声を遠く聞きながら、一禾は外したばかりのゴム手袋を装着すると、シンクの水垢を取ることの方に注意を戻した。キッチン周りは一禾が掃除することに別に決まっているわけではないが、使うのは殆ど自分ひとりだし、掃除されて周辺に並べているものを変な配列にされるくらいなら、自分で掃除するというのが一禾の信条だった。
「でも別にそんなに吃驚することじゃないんじゃない」
泡立てて置いておいたスポンジを取り上げ、それでシンクの隅を擦る。紅夜もその頃になると、染がいい加減な返事しかしていないことに、若干気付き始めていた。
「え、何で、あの京義やで!一禾さん!」
「いや、京義だって女の子のひとりやふたりとデートぐらいするでしょ」
「・・・そ、そうやろか・・・」
紅夜にとってはまさかの返答だったのか、それに今までの勢いは何処へやってしまったのか、急激に語尾を弱める。ホテルで一緒に暮らしていても、京義は殆ど何も言わない、見た目以上に大人しい少年だったが、あの夏衣が引っ張って来ただけはあって、鼻筋の通った綺麗な容貌をしている。あの京義が女の子と一緒に居て、まさか気の利いたことが言えるとは思えないので、京義が見た目の美麗さ以上に彼女達に評価されることはないだろうと、一禾は失礼にも常々思っていたが、それは一方では確実に現実を捉えていたともいえる。ホテルですらかなり低レベルのコミュニケーション能力しか発揮出来ない京義は、学校ではそれに輪をかけて酷い状況だったから、その見た目の特質さから多くの生徒に敬遠されていることも相俟って、京義に声をかける女子生徒は殆ど皆無と言っても過言ではない。教師ですら少々躊躇いがちに京義のことを呼ぶことを知っている紅夜にとってみれば、一禾の言い分に反論出来るだけの材料は持っているつもりだった。
「そうだよ。京義だって綺麗な顔してるもんね、ちょっと女性的過ぎるかもしれないけど」
「そうなん!染さん!」
「俺?・・・いや、俺分かんないよ、俺したことないし・・・デートとか・・・」
「何や、使えへんな!」
あっさりそう言われ、瞬く間に染は分かり易くしゅんとする。まぁそりゃそうかと思いながら、紅夜はすっかり意気消沈してしまった染を放置して、くるりと一禾のほうに向き直った。そこで一禾は、格好や雰囲気にそぐわない庶民的な問題と戦っていた。
「でも京義女の子とか興味ないって言ってたで!」
「あぁ、無さそう、っていうか京義って何に興味あるんだろうね」
「そういう話やないやん!」
「ちゃんとエスコートしてるのかな、出来なそうだよね。そういうこと、京義って」
「何なん一禾さん!さっきから!」
「いや、だって悪いことじゃないよ。好きな女の子とデートぐらいするでしょ。紅夜くんもしたら良いのに」
「俺はそんな責任負えへんもん!」
「・・・せ、責任って・・・」
何だか随分と身に沁みる痛い言葉だと思いながら一禾は、それに苦笑いを浮かべた。紅夜が自分の特に女性関係の交遊録を良く思っていないことは知っていたが、時々余りにも分かり易過ぎる表現で紅夜はそれを一禾に向かって主張することがある。青少年の育成に自分の行いが良い風に働かないことくらい、一禾だって良く分かっているが、染み付いたその習性を今更大幅に変更することは中々難しい。一応京義や紅夜には見えないようなところで遊んでいるつもりではあったが、ホテルに帰らないという余りにも分かり易い決定的な証拠がある限り、こうして紅夜に突かれることが今後なくなるとは思えなかった。紅夜はどこか釈然としない表情のまま、ここで喚いていても仕方ないということに、そろそろ気付いたのだろう、一禾がずっと危惧していた箒を引き摺り談話室から出て行ってしまった。それが得策だと一禾はその背中を見送りながら思う。一体どうして紅夜があそこまで慌てていたのか、良く分からないからそれには首を傾げることしか出来ないが。
「・・・結局何が言いたかったのかな、紅夜くん」
「知らね。でも紅夜って時々酷いよな・・・」
「言っていることは正しいから、反論出来ないんだよね、染ちゃん」
「・・・べ、別に俺、デートとかしたくないもん」
「あ、そ。そりゃ安心だ」
「え、何て?」
染がきょとんとした顔で聞き返す。それに一禾は含み笑いを返した。
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