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花束を持って挨拶に Ⅰ

その日どうして自分が薄暗い研究室などに呼ばれたのか、一禾は良く分からなかった。全くそれに身に覚えがなかったからである。学生呼び出しの欄に名前が書いてあると教えてくれたのは、最近一禾に興味を持って近づいて来ていると思われる同じ学部の女の子だった。とある准教授の研究室まで来るようにと素っ気無く書かれているのを、掲示板で確認したのが午前中のこと。4限は外部から招かれた有名な教授の講演会があるとか何とかで、それに出席したかった一禾は早々にことを解決すべく、問題の准教授の研究室前に立っていた。しかしここの准教授のゼミを取っていたわけでもなく、特別深い関わりを持っていたわけでもないし、おそらくレポートやその他の提出物を出し忘れていたわけでもないだろう。そういうことに関して自分は抜かりなくやっている、どこから来るのか分からないその確固たる自信を持ったまま仕方無しに扉を叩く。返事がして何の疑念も持たずに開いたその部屋が妙な暗さに包まれていたから、一禾はそれに背筋を気味悪く撫でられている気がした。何となく嫌な感じ、それを瞬時に感じ取ったが、その背中で扉は無常にも閉まるのである。 「上月です。呼ばれてるの見て来たんですけど」 「あぁ、そのことか。こちらに来なさい、上月くん」 「はい」 部屋の中はいかにも研究室らしい鬱蒼とした雰囲気で、天井まである巨大な本棚に本が所狭しにぎゅうぎゅうに詰め込まれている。男の座っている奥の机の上は乱雑に汚れていて、研究室全体に何処か黴臭い匂いが充満していた。一禾は顔を背けたかったし、出来ればこんな部屋にいつまでも居たくなかったが、学生身分でまさかそんな失礼なことが言えるはずもなく、男に言われるままそろそろと足を動かして男の座るデスクの前まで遣って来た。ちらりと壁にかかった時計を見上げると、後30分もすると講演の時間だった。もっと早く来れば良かったとその時考えたが、最早後の祭りだった。間に合うだろうか不安だったので、面倒臭い世間話をされる前にと、男が切り出すより早く、一禾はその本質に迫った。 「それであの、一体何の御用でしょうか。僕、何か出し忘れていました?」 「・・・君、桜庭さんのところのお嬢さんと付き合っているのかい」 「は?」 男はそこに座った格好のままひとつも顔を上げないで、口の中でぼそぼそと一禾にそう問うた。男の声が極端に小さかったこともある。言われた内容が仮想していたものとは違ったせいもある。一禾は一瞬素に戻って、殆ど反射的にそう聞き返していた。しかしそれを修正しようという気は全く起こらなかった。男が立ち上がって、その嫌な感じを全身で感知しながら一禾は一歩足を後退させた。不味い空気がこの汚い部屋の中を漂っている。面倒臭いことになりそうだと、一禾ひとつ溜め息を吐いた。しかし男はそんなこと気にする様子もなく、おもむろに机の上に乗せられたただの資料か何かだと思っていた白い紙をひっくり返して、一禾の目の前に翳した。部屋は暗かったが、それは鮮明に一禾の網膜に焼きついた。 「・・・―――」 そこには手を繋いで歩く自分と玲子の姿が映っていた。 「確か、桜庭さんのお嬢さんは婚約してらっしゃるはずだが」 「これは一体どういうことだろう」 そんなことは一禾のほうが聞きたかった。いつそれが撮られたのか分からなかったが、玲子とは何度か一緒に彼女に言われるまま手を繋いで外を歩いた記憶がある。そんな写真が取られていたことに気付きもしなかったが、何よりなぜ男がそれを持っているのか、一禾には全く分からなかった。白ばくれようにも、写真には克明に自分の姿が写っている。それは見間違えようもなく、はっきりとそこに写っているのだ。そしてそれは如何見ても恋人のそれとして、捉えられるべき姿だった。舌打ちでもしたかったが、ばっと男が一禾の手首を掴んで、一禾が状況を良く飲み込むことが出来ないまま、鬱蒼と積み上げられた本棚に追い詰められた。一禾が背にした本棚のどこかで、どさどさと何かが崩れるような音がした。 「・・・何ですか、先生」 「黙っていてあげても良いんだよ、上月くん」 「・・・は?」 「君が俺の言うことを聞く気があるのなら、黙っていて上げても良い」 「・・・―――」 成る程、これは脅迫されているのかと目の前にちらつく写真を見ながら、一禾はひとつ溜め息を吐いた。なぜだか妙に納得がいった。一禾が黙っているのを、怯えているのか何かと勘違いした男は、ざらつく手で一禾の頬をいやらしく撫で上げた。それに背筋が寒く無意識に眉間に皺が寄ったが、そこで不用意に拒絶することは憚られて、一禾は暫く男のしたいようにさせてやることにした。この写真が公開されたら、一体どういうことになるだろう。ことの本質さえ分かれば、後は最善の解決への道を考えれば良いだけのことで、一禾にとってそれは別段難しいことではなかった。別に公開された程度では、一禾自身は特別そんなに大きな被害を受けることはない。大学は退学処分になるかもしれないが、元々こんな三流大学に興味など鼻からなかった。染が行くと言うから、自分はそれに付いて来ただけである。退学になったことについて、染には後々文句を散々言われるかもしれないが、それにはもう謝れば良いことである。自分がここに籍がなくなることで、染が大学に行き渋ることには当然なるだろうとは思ったが、それも後で何とでもなる。大学の質が悪いとそこに勤務する教師の質まで劣るのかと、ゾッとしながら男の顔を見やった。 一禾がいつまでも黙っているから、沈黙は肯定とでも見なしたのか、男の行動は徐々にエスカレートしていた。不意に顎を掴まれて、不味いと一禾が思った瞬間には唇が塞がれていた。流石に突き飛ばしても良いだろうと思ったが、なぜか腕は一禾の意思を離れて全く動かなかった。なぜなのだろう、一禾はそこでようやく慌てはじめた。このままでは男の思う壺である。唇を離して満足したのか、男はひとつにやりと微笑むと、一禾のシャツのボタンを上からひとつふたつと外しはじめた。 「・・・先生」 「大丈夫だよ、上月くん。君に酷いことをするのは俺も本意じゃないからね」 「・・・そうじゃなくて・・・」 「それとも退学になりたいのかい」 「・・・―――」 どうして何も言えないのか、からからになった喉に言葉が張り付いて、一禾は呼吸もままならなくなっている自分に気が付いた。男は一禾がやはり怯えているのだと勘違いして、気味の悪い優しい手つきで一禾の頬を、首筋を、次々に撫でた。ちらりと染の顔が脳裏に過ぎった。今この学校のどこかに、染も居るだろう。一体何をしているのだろうか、一禾は曇ったガラスの外をぼんやり見ながら、悠長にそんなことを考えていた。ある種の現実逃避だったのかもしれない。これはもしかしたら何かの報いなのかと思ったけれど、一体何の報いなのか一禾には分からなくて、如何すべきなのかまだ迷っていた。ここで男を突き飛ばして、公開でも何でもしろと啖呵を切ることは容易い。だとしたらなぜ自分はそれを選ぼうとしないのか。 「あぁ、綺麗な体だ、上月くん」 「君のことがずっと欲しかったんだ」 男の指先が一禾の敏感な部分に触れて、思わず声を上げそうになって、一禾は慌てて下唇を噛んだ。男はそれを見ながらまたも満足そうに微笑んだ。何とかしなければ、何か方法はあるはずなのに、どちらにしてもここで男に屈してしまうのは一番不味い選択だ。そんなことは今更改める必要もなく分かっている、分かっているのに、なぜか思考は回転を止めている。男の舌がざらりとした感触を伴い、一禾の胸の突起を舐め上げた。それから逃れようとして振った頭が、がつんと後ろの本棚に当たる。じわりと痛みのせいで生理的な涙が込み上げてきた。それを男はまたも自分の良いように解釈し、男は仕切りにそこを舌で舐め上げたり、少し噛んだり、指で潰してみたりとじわじわ一禾の本能を攻め立てる。 (・・・何やってんだ、俺・・・) 唇が割れて自分でも聞いたことのないような甘い吐息がそこから漏れ出し、羞恥にかっと頬が染まる。薄暗い部屋の中にそれが反射するように響いて、いつまでも一禾の耳の奥に残っていた。

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