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花束を持って挨拶に Ⅱ
いよいよ不味いことになっている。一禾は荒く呼吸を繰り返しながら、一生懸命冷静になろうと務めていた。すると遂に教職にある男は何の躊躇いもなく、一禾のデニムパンツの中に手を突っ込んだ。短く悲鳴が自らの口から漏れて、それから逃れようと一禾は体を捻った。その頃になると、もう公開や退学なんかどうでも良くなっていた、ここでこんな汚いところでこんな意地汚い男に良いようにされるほうが、余程自尊心を傷付けられる。離してくれと訴えるつもりで男の肩を幾分か強めに突いたつもりだったが、男はなぜか全く微動にせず、それどころか嬉しそうな顔をして、下着の上から一禾のものを握り込んで来た。
「せんせ、・・・っめてくだ、さい」
「恥ずかしがることはないよ、上月くん。ちゃんと善くして上げるから」
「ちょ、・・・ホントに・・・―――っ!」
あぁもう御仕舞いだと、一禾は不意に目の前が真っ暗になった。そうすると抵抗するのも馬鹿らしくなって、突っ張っていた腕がずるずると落ちてゆくのをぼんやりとした意識の中で感じていた。男の気持ちの悪い忙しない呼吸が、耳元で煩くなっている。どうでも良いと思っていた、自分のことだから確かに如何でも良いと思っていた。それより優先すべきことが、何より一禾にはずっと見えていたのだ。だから自分ことを後回しにして、今まで生きてきた。これはその報復なのかもしれないと、一禾は不意に思った。どうでも良いと根底で思っているから、無意識に自分を守ることを放棄してしまっているのだ。考えてみれば、それは随分筋の通った理論のように思えた、こんなところでこんな風に意識化されることはないはずだとは思ったが。
「すいません」
その時薄暗い研究室に誰かの声がそう響き渡って、一禾は瞑っていた目を開いた。真っ暗だと思った視界には光が差し込んでいて、開けられた扉の前には誰か立っているようだった。目の前で今まで必死に一禾を弄っていた男は、それを確認すると自棄に俊敏な動作で一禾から飛び退いた。支えを失った一禾は、あられもない姿のままそのまま本棚を背にずるずると力なく床にへたり込んでしまった。如何してか、先刻から体に力が入らないのだった。その誰かのフォーマルシューズが研究室の床を叩き、近付いてくるのが分かって一禾はゆっくり顔を上げた。しかし男が屈んで一瞬顔が見えなくなる、次の瞬間視界に現れた男は手に例の写真を持っていた。
「さ、桜庭教授・・・」
「あの、E棟の講堂というのは何処だろう。如何やら迷ってしまったみたいで」
「・・・え・・・いや、あの・・・」
「誰か学生に案内してもらえば良かったなぁ、もうすぐ講演の時間なのに、この分じゃ遅刻だ」
自棄にゆっくりとしたテンポで喋る男のことを、准教授は桜庭と呼んでいた。そういえば今日講演に来るはずの外部の偉い方である教授は、桜庭という名前だったような気もする。それにしてもこの状況が一体何を示しているのか、桜庭に分からないはずがない。それを確かめも咎めもせずに、道を尋ねるなんてどう考えてもおかしかった。そんなことには興味がないのか、それとも巻き込まれたくないと思っているのか。教授職の人間は往々にして偉くなればなるほど変人が多い話を聞くが、それも今なら納得出来る。ぼんやりとそんなことを考えていた一禾のほうに桜庭が目をやったのは、それから暫くしてからだった。
「君、学生かい?」
「・・・はぁ・・・」
「なら丁度良い、E棟の講堂まで案内を頼めるかな」
「・・・え」
一禾が返事をするよりも早く、桜庭は座り込んでしまっている一禾の腕を持って立たせ、そのまま自棄に強引な所作でずるずると引き摺るようにして研究室を横切った。手にはまだ写真が握られている。准教授が何か言うかと思ったが、男も桜庭の突然の登場やその意図の全く読めない言動に驚いているのだろう、それじゃぁ失礼したね、と桜庭が当然のように漏らすのに、曖昧な返事をするだけだった。中に居たのはほんの30分程度のことだったが、一禾にはそれが何時間にも思えた。薄暗い研究室の前の廊下には窓がきっちりつけられており、そこを通ってやってきた時には分からなかったが、随分と明るいように思えて一禾はそれに眩暈すら感じた。しかしふらふらと足元が覚束無い一禾を桜庭は黙ったまま腕を引っ張り、一禾を引き連れ自棄にしっかりとした足取りで廊下を進んでいった。そしてエレベーター前まで一禾を引っ張っていくと、そこで桜庭はゆっくりと手を離した。一禾はその背中に何と言うべきか分からなくて、まだ体の芯がぶれる気持ちの悪い感じとともにそこに突っ立っていた。ややあってから桜庭は先ほどの言動とは違い全く急いでいる風なく、ゆっくりと振り返った。そして一禾をじっと見た後、内ポケットからベージュのアイロンのかけられたハンカチを取り出し一禾に渡した。
「これを使いなさい」
「・・・はぁ・・・」
「大丈夫かい、顔色がとても悪いけれど」
「・・・いえ、あの」
「怪我はないようだね」
「・・・―――」
黙ったまま一禾がハンカチを握り締めてぼんやりとしていると、桜庭はそれを一禾から奪い取り、一禾の口元をそれで拭った。そして開けっ放しだったシャツのボタンをひとつひとつ留めて、少々皺になってしまっていたけれど、一禾を元の様相に戻した。そして一禾のデニムパンツのポケットにハンカチを押し込むと、エレベーターの前にあるソファーに一禾を座らせた。
「怖かっただろう、手が震えている」
「・・・ぁ」
「もう大丈夫だ。落ち着きなさい」
言われてはじめて気が付いた、指先の震撼に。それをぎゅっと上から握り込まれて、またも曖昧な言葉が口から漏れる。怖かったのか、本当に怯えていたのか、あの暗い部屋に追い詰められて。分からなかった、そんな脆弱な心で自身が成り立っているなどと、一禾にはとても思わなかったし、思えなかった。確かめるつもりで桜庭の顔を見ると、目が合い穏やかに微笑まれた。それには何の言い訳も必要がないような気がして、一禾は言いたい言葉を全て飲み込んだ。そして次の瞬間には自分が何を言いたかったのか、すっかり忘れている。体の上を無遠慮に這った指先の跡をまだ覚えている、口内に残る男の舌の感触をまだ覚えている。一禾は恐る恐る自分の唇に触れてみた。未だ震撼の酷い指先は、感触をなかなか一禾に伝えてはくれなかった。
「あんなことを誰かにされたのははじめてかい」
「・・・はい」
「そうか。何と脅されたのか分からないが、怖くとも言い成りになってはいけないよ。君が君を守らなければ、誰も守ってはくれない」
「・・・」
「もう僕は行かないといけないけれど、君は一人で大丈夫かな」
その言葉には聞き覚えがあった。君が君のことを気に掛けてやらないと、誰も気には掛けてくれないよ、と確か江崎が言っていたのだ。一禾はそのことを回転の鈍い頭で、ぼんやりと思い出していた。どうして今、別の人間に同じようなことを言われているのだろう。桜庭は写真をまだ右手に持ったまま、不意にソファーから立ち上がった。一禾はそれを目で追ったが、立ち上がるほどの元気は何処にも残されていなかった。足まで震えていたのを、そして今更ながら感知した。
「・・・何も、言わないんですか」
「何の・・・あぁ、これのことか」
「・・・」
「まぁ、良いんだよ。若いうちは色々ある。僕だって色々あった」
そう言いながら目尻に皺を寄せて笑うと、桜庭は写真をぐしゃっと握り潰した。そこに写って笑っている自分と玲子がそれに併せて歪むのを、一禾はどこか他人事のように眺めていた。案外公開されても玲子だって桜庭のこの調子では、然程障害にはならないのかもしれない。だとしたら自分は一体何のためにあそこで迷っていたのか、一禾には未だ分からなかった。ただそれは恐怖だった。それは遠い昔を簡単に想起させる、幾度か経験したことのある、圧倒的な恐怖の中に居た。
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