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花束を持って挨拶に Ⅲ

ぼんやりと鍋の中をかき回している。どこかで誰かの声が湾曲して聞こえて、それが何を言っているのか分からない。視界は何故か白濁に染まり、くっきりとなぜか目に写るものは輪郭を示さない。何度か誰かに呼ばれた気がしたが、それが誰なのかなぜ呼ばれているのか、一禾には良く分からない。ただ茶色い鍋を覗き込むようにして、それを先ほどから混ぜ続けている。時々握った横レードルが確かな感触を伴って、一禾の腕に重みを伝える。あぁ入れないと、考えるまでもなく手が動いて、側にあった調味料のキャップを開けた。 「一禾さん、味噌汁ふいてるやん!」 「・・・え?」 強力な引力により、現実に連れ戻される。一禾がゆっくりと振り返ると、紅夜が自棄に慌てた顔をして、火にかけっぱなしだった味噌汁の火を止めていた。その右手には、先ほどまでそれをリビングで捲っていたのだろう、英単語帳が握り締められている。一禾はその様子をぼんやり見ていたが、自分がいつ味噌汁を作ったのか、どんな手順で作ったのか、全く覚えていなかった。紅夜が険しい顔をして振り返るのに目が合った、どんな顔をして良いのか分からずに、一禾は黙ったまま首を傾げる。 「・・・って、それカレー粉やし!」 「・・・」 「何でビーフシチューにカレー粉入れんねん!そらちょっと似てるけどな?」 「・・・あぁ、うん」 「っていうか味噌汁とビーフシチューって・・・何やねん、その組み合わせ・・・」 「・・・―――」 持っていた調味料を取り上げられ、そのパッケージが黄色かったから、きっと紅夜の言うようにカレー粉なのだろうと遠ざかって行くそれを見ながら一禾は思った。紅夜の声が聞こえているが、それが一体何を言っているのか、神妙な顔をして紅夜が何を伝えようとしているのか、一禾には分からなかった。曖昧に返事をすると、一禾がいまひとつ理解していないことを紅夜は簡単にその言葉尻から読み取り、怪訝な表情を浮かべた。点けっぱなしだったビーフシチューを温めていた火も紅夜は消して、それを何も言わずにぼんやりと見ている一禾のほうに近付いた。いつもならホテルの住人はキッチンに入らない、そこに一禾がいるなら尚更のことだ。自分たちが足手纏いにしかならないことを、それぞれ自らの尺度で理解している。しかし今日の一禾は帰って来たときから少しおかしかった。染も夏衣も気にしていないようだったが、紅夜は気になったから部屋に戻らずリビングで一禾の様子を伺っていたのだ。案の定こうして綻びは簡単に表面化されている。 「一禾さん、どないしたん」 「・・・うん」 「何かあったん?元気なさそうっていうか、ぼんやりしてるみたいやけど・・・」 「・・・うん」 緩く頷いて一禾は全く理解していない表情で、紅夜のそれに呼応する。紅夜が眉を顰めても、一禾は焦点の定まらない目をただこちらに向けているだけだった。染の調子が悪くなることは今までに何度もあったが、一禾がこんな風になるのを見たことがない。これはきっと何か遭ったに違いないと思ったけれど、この状態の一禾から事の真相を聞きだすことは不可能に近い。紅夜は一禾のエプロンを剥がすと、その背を無理矢理押してキッチンから一禾を追い出した。どちらにしろこんな状態の一禾に、夕食を任せるわけには行かない。 「もうええから、一禾さん、部屋戻り。後は俺が何とかするわ」 「・・・うん」 力なく頷いて、一禾はくるりと紅夜に背を向けた。 桜庭は写真を側のゴミ箱にぞんざいに放り投げると、本当にそのまま行こうとした。多分道に迷ったというのは嘘で、E棟の講堂の場所など鼻から分かっていたのだろう。下りる階段を選択したということは、どう考えてもそういうことだった。一禾はまだ震えている足を無理に動かし、そうして自らを立たせて、桜庭の背中に声をかけた。不思議と声はいつもの様相を伴って響き、桜庭はやはり緩慢な動作で振り返った。 「どうしてそんなことが、言えるんですか、簡単に」 「・・・どうして、とは」 「自分の娘のことが、心配じゃないんですか」 「・・・ふうん」 先刻から桜庭の言動は、完全に不調和に見えた。桜庭はゆっくり一禾の言葉を咀嚼するように頷くと、もう一度側まで戻って来ると、まず一禾の肩を緩く押してソファーに座るように促した。崩れるように一禾がそこに腰を据えると、満足したようにひとつ無言で桜庭は頷く。一禾にはよく分からなかった。目的の見えない桜庭の行動はただ気味が悪いだけだった。どうして娘の結婚の障害になるかもしれない男をこんな風に介抱したりするのか、一禾にはとても理解出来なかった。暴言を吐かれて殴られるほうが、分かり易いだけ幾分もマシだった。桜庭はそうすべきであるし、自分はそうされるべきだ、一禾は確かめるつもりで桜庭を見上げていた。 「手を出して」 「・・・?」 しかし桜庭は一禾の欲しい言葉を頑なに隠したまま、突然またそんな理解のつかぬ事を言い出した。そろそろと一禾が手を差し出すと手首をぐいと掴まれ、桜庭は右手で胸ポケットを探り、そこから何の飾り気もないボールペンを取り出した。カチリとそれをノックすると一禾の手のひらを一度撫でて、そこに何やら書き出した。ややあってから桜庭は手首を離して、ボールペンを元のように胸ポケットに仕舞った。一禾は解放された手のひらを見つめる、そこには何度か玲子と行ったことのあるコーヒーショップの名前が書かれていた。 「君が少しでも僕に悪いと思っているのなら、24日の19時にここにおいで」 「・・・」 「待っているよ」 「・・・―――」 そうして桜庭は今度こそしっかりした足取りで階段を下りて行き、やがてその背中は見えなくなった。一禾は桜庭の背中が消えるのを確認した後、手のひらに残された歪んだ筆跡を見つめた。自分は玲子とのことを、父親である桜庭に悪いと思っているのだろうか、桜庭はここに呼び出して一体何の話をするつもりなのだろうか、分からなかった。ただあれだけ酷かった手の震撼が、いつの間にか止まっていた。 電気の付いていない薄暗い部屋で、一禾は珍しく服も着替えないままベッドに仰向けになっていた。見慣れた天井が随分高く感じるのはどうしてなのか、まだ頭が重くて足元が浮ついている感覚が居座っていた。こんな状態で良く車を運転してここまで帰って来られたものだ。手のひらにはまだ桜庭の残したコーヒーショップの名前が鮮明に残っている。そこを撫でて、一禾はひとつ息を吐いた。 (・・・あぁ、そうか・・・24日は・・・クリスマスイブだ・・・) 勿論一禾のスケジュールは、二ヶ月前からパトロンのひとりに抑えられていた。幸いだったのはそれが玲子ではなかったことだろうか。しかし桜庭は高確率で一禾に予定があることを分かっていただろう、分かっていて敢えてこの日を指定したのだろう。これは試されているのか。行くわけがないと一禾は笑いながら呟いた。桜庭は悪いことをしていると思うならと言った、だとしたら一禾にはそこに出向く必要がない。一禾は割り切って生きている、玲子だって同じだろう。そこに罪の意識など通わせて、ふたりで感傷的になっているほうが馬鹿らしい。そんなことをしている暇があったら、もっと別の有意義なことに時間を使う。だから一禾は悪いとは思わない、桜庭は自分を殴る権利があるとは思ったが、それが義務だとは思わない。 行くわけがない、一禾はもう一度笑いながら暗がりに呟いた。

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