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花束を持って挨拶に Ⅵ
ベッドの上にずらりと並べたネクタイを見ながら、一禾は卸し立てのブルーのシャツに腕を通していた。余り格式ばっていない雰囲気で、尚且つ誠実な印象を与えるものを、そう思って端から鏡の前で合わせる作業に追われているが、どれも納得のいく仕上がりを一禾に示してはくれなかった。シャツが悪いのかと白に変えてみるが、そうすると清潔感は出るものの、無難に纏めた雰囲気が拭い切れない。ピンクにしてみようかと着替えている間に、昨晩アイロンを当てたシャツがどんどん皺になっていく。もう30分も鏡の前で同じことをしている。一禾はシャツを選ぶのを後回しにして、時計を仕舞っている棚に目をやった。見て明らかな高級品と分かるいやらしいものはつけるのは止めようと、そこに並べられた数多くの貰い物たちをじっくりと眺める。ベルトが革になっているものを選んでつけてみる。貧相な手首が余計目立つような気もするが、銀に変えると不必要な異質感を手首のみが放っている気がして気持ちが悪い。そういえばこんな風に一生懸命になって様相を気にしたことなど、今までなかったのではないだろうか。色々な種類の女の子と付き合ってきた自負はあったが、一禾はそのどんな女の子の前でも一禾のままであり、それこそが自分であるという確信的な幻想を抱いていた。
(・・・何やってんだろ、俺・・・)
姿見に映った自分の姿に苦笑する。
結局ブルーのシャツにレジメンタルネクタイといういつもと変わらない様相で、一禾は溜め息を吐きながら談話室まで降りてきた。コートも地味な黒にし、時計は結局ブランドが前面に押し出されないものに決めた。靴は昨晩念入りに磨いて準備しておいていた。車はあからさまな外車しか持っていないので、タクシーでそこまで行くつもりだった。首尾は万事整っているが、何を万事整える必要があったのかとソファーに腰を降ろして、一禾はもう一度自分を戒める意味を込めて深く息を吐いた。頭で考えていることと体がやっていることが、どうしてこうも上手く合致してくれないのか、不思議ですらあった。テレビの隣には、昨日染と紅夜と夏衣が面白がって飾り付けた、小さなクリスマスツリーがこれ見よがしにディスプレイしてあり、その電飾が煩く点灯している。一禾はそれを見ながら、本当に今日はクリスマスイブなのだといよいよ痛感していた。
「おはよー、一禾」
「・・・あぁ、おはよう」
学校に行かないで良くなると、時間の感覚を染は突然忘れてもう昼だというのに、眠そうに欠伸をしながら降りて来た。一禾はそれをちらりと見ただけで、時間には不適格な挨拶を口の先で返すと、ツリーに視線を戻す。普段京義には何も言わないが、それは京義が夜起きていることを強いられるような、不規則な生活をしているせいだった。染の怠惰とは根本的に違う。染は一禾の後ろのテーブルに腰を据えたようだった。しかし幾らそこで待っていても一禾はソファーに座ったまま、じっと何かを見つめている様子でぴくりとも動かない。5分10分待つと流石に染も可笑しいと思って、寝起きの目を珍しそうにぱちぱちさせた。いつもなら一禾は小言を言いながらでも、染の遅い朝食兼昼食を準備してくれる。それが今日は全くその気配も見せず、かといって忙しいというわけでもなく、ソファーに座ってぼんやりとしている。
「なぁ、一禾ぁ・・・―――」
染がその背中に声をかけると殆ど同時に、一禾はソファーから突然すくっと立ち上がった。何だ、ちょっと怒っているだけなのかと染がほっとしていると、一禾はすたすたと談話室を横切って扉に手をかけた。てっきり朝食の準備をしてくれるのだと思っていた染の予想は、そして簡単に裏切られる。しかし一禾はそのまま談話室から外には出て行かなかった。一禾が手を掛けた扉は一禾がそれを開くより早く、外側から開けられたからである。一禾が勝手に動いたドアノブに吃驚して手を離すと、扉が開いた向こうには夏衣の顔があった。鉢合わせになった夏衣も吃驚したのだろう、一禾の顔を見ながら数秒固まると、それでもこんなことは何度かあったので、すいと一禾に進路を譲って談話室の中に入っていった。その夏衣を追いかけるようにして、紅夜も入ってくる。このふたりは比較的休日だろうが平日だろうが、同じ時間に寝起きしているようだった。尤も、夏衣に関しては、休日と平日の区別という認識があるのを前提とした話ではあるが。
「あれ、どうしたの、一禾、その格好」
「・・・あ、うん、まぁ・・・ちょっと」
「あー、そっかあ、今日イブだもんねぇー」
「ご苦労さんやな」
「・・・あぁ、うん」
揶揄するような夏衣の含み笑いと、どこか棘のある紅夜の口調に、一禾は曖昧なことしか言えなかった。本当だったら夏衣や紅夜が暗に言っているように、今頃誰かと腕を組んで手を繋いで、どこかの華やいだ町を歩いている予定だった。その予定がなぜか大幅に狂わされて、一禾はまだ談話室なんかに立っている。今ならまだ行かない選択も出来ると思いながらシャツを選んで、靴を磨いて、肌の調子を整えて、早く眠った。大いに矛盾していると自分でも思うけれど、一緒に過ごすと決めていた女の子に、教授に呼び出されたから行けないとわざわざ電話をして言った時から、一禾は無意識的なところで決断していたのかもしれない。しかしどうしてこの大事な日にそんな決断をしたのか、自分でも首を捻るしかない。
「じゃぁ、行って来るよ」
引っ込みがつかなくなっているのかもしれない。だとしたらこれは意地の延長だ。
コーヒーショップに人は少なかった。外が暮れ出すのに、今の季節は時間がかからない。電飾によりいつもより美しく飾られた町を見ながら、一禾は窓際の席でぼんやりとアメリカンコーヒーを啜っていた。嫌味のないようにとベルトが革のものを選んでつけてきた一禾の時計は、もうすぐ20時を指そうとしている。モカブラウンの机を爪で叩いて、一禾は何度目か溜め息を吐いた。桜庭は何と言ったのか、19時に待っていると言ったのだ。それがもう1時間もここでこうして、なぜか一禾のほうが待たされている。もしかしてあの男、言ったは良いが忘れているとかそんなことじゃないだろうなと一禾は苛々した心を静めるために、もう一杯コーヒーを注文した。はじめて見た有名教授らしい桜庭は、ふらふらとその場の雰囲気のままに言葉を繋いでいるような、終始前後関係の不明な言動を繰り返していた。これもその一環だったのかもしれない、あの時自分が弱っている上に面倒臭いことを言い出したから、何かと言って逃げる口実に使われたのかもしれない。そういえば桜庭は講演を後に控えて、全く急いでいる雰囲気はなかったが、時間的には余裕がなかったと思われる。適当なことを言って曖昧にしたほうが、突っ込まれずに済むとでも思ってあんなことを言ったのか。だから一禾の予定が埋まっているであろう、この日を指定したのか。元から来るつもりなどなかったのか、ぐるぐると思考は同じところを行ったり来たりしている。
(馬鹿馬鹿しい・・・)
ではどうして自分はここに座ったまま一時間もコーヒーを啜っているのか、さっさと切り上げて女のところにでも行くか、ホテルにでも戻れば良いのに。そんなことは分かっている、分かっていて尚ここにいるその意味を、一禾は出来るだけ考えないようにしていた。3杯目のコーヒーを一禾が飲み干して、ソーサーにカップを戻すと不意にそこに影が降りた。伝票でも持って来たかなと振り返ると、そこには一禾の予想を裏切って桜庭が立っていた。驚き目を見開く一禾に、桜庭は照れたように笑うとそっと一禾に立ち上がるように促し、有難う御座いましたと頭を下げる従業員の間を縫って、真冬の外まで連れ出した。コーヒーショップに似つかわしくない外車が駐車場にひとつ止まっている。桜庭はそれの助手席を躊躇いなく開いて、振り返った。
「怒っているのかい」
「・・・約束は19時だったと思うんですけど」
「色々あってね、抜けられなかったんだよ。まさか来ているとは思わなかった」
「・・・」
「まぁ、そう不貞腐れずに。乗りなさい」
何気なく肩をぽんぽんと叩かれ、一禾は顰めた眉をそのままに仕方なく助手席に乗り込んだ。ややあってから桜庭が運転席に座り、微弱なエンジン音を立てて車は発進した。一体どこに連れて行かれるのだろう、そこで一体どんな話をするつもりなのだろう、一禾は胸の奥がざわざわと煩いのを知りながら、桜庭の隣で何でもない顔をしているので精一杯だった。
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