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花束を持って挨拶に Ⅴ
美しい東京の夜景が見渡せるホテル最上階のレストラン、真っ白いテーブルクロスに銀食器、真紅のワインが注がれたグラスの向こうに、父親ほどの年齢の男が座っている。その男の背中越しに見えるテーブルには、奮発したのか若いカップルが座っており、何処か畏まった様式で自棄に静かに食事をしている。それもその筈、今日はクリスマスイブなのだ。ここまで案内をしてくれたボーイが、桜庭とその後ろに控え目に立っている一禾のことを見て一瞬ぎょっとした顔をしたのも分かる。そんなことで彼を咎めることは出来やしないと思えた。高級感溢れる店内は、もともとそんなに人数を入れるつくりになっていないのだろう。しかしその殆どがカップルか夫婦、つまり男女のペアで埋まっていた。そんなことだろうとは思ったけれど、と一禾は溜め息を吐くが、桜庭は全く気にしていない風で優雅にワインの香りを嗅いでいた。
「・・・車で帰るんじゃないんですか」
「そうだね、どうして」
「飲酒は控えることをお勧めしますけど」
「はは、でも随分良いものを入れてくれたから。それに部屋も取ってあるし、何だったら今日は泊まっていっても良い」
そう言って躊躇いなく真紅の液体を口に含む桜庭の真意など、いつまで経っても見えてこない。部屋なんか取ってどうするつもりなのだと言ってやりたかったが、自ら墓穴を掘りそうな気がしたので、一禾は頭の端にそれを引っ掛けながらも黙って聞き流すことにした。桜庭はあの准教授の男と同じように、結局自分の若く美しい体が目的なのかもしれない。ただ桜庭は男のように低能ではないから、一禾を手に入れようと今まで思考を巡らして来た明晰な女たちのように、おそらくは一禾の機嫌を取るために、こんなところに連れて来ただけなのかもしれない。それが分かっているのにのこのこと付いて来ている自分は、だとすれば一体何なのだと思わざるを得ない。現状をどう理解して良いのか分からず、舌打ちをしたくて一禾は俯いた。
「美味しいよ、君も飲みなさい」
「遠慮しておきます、変なもの入っていたら嫌なんで」
「まだ怒っているのかい。全く子どもだね」
そりゃそうだ、お前に比べたら人生経験がない分子どもだろうと一禾は思いながら、反論出来ずにただ口惜しい思いばかりで下唇を噛んだ。桜庭によってその時選ばれたそれは、一禾の一番嫌悪している言葉だった、しかし桜庭はそれを知ってか知らないでか、どちらにしても笑いながら平気でそれを口にする。結局それが社会からの一禾自身の評価なのだと、自分でも痛々しいほどに良く分かっている。白い皿の上、運ばれて来た前菜を綺麗に食べながら、こっそりと桜庭の様子を伺う。如何のこうのと先刻から色々な話はしているものの、結局一禾をここに連れてきたその理由を桜庭は話そうとしない。適当に相槌を打ちながら、一禾も自分から切り出すのは悔しいと思い、あくまで気にしていない風を装っていた。
それにしても恐る恐る桜庭の後について来ただけだったが、こんなところ二度と来ることが出来ないだろうと一禾は踏んで、前菜にかかっているオレンジ色のソースを掬った。男の真意が見えないことは、気持ちが悪いが一禾ひとりが思案していても解決する問題ではない。それよりも目先の欲求のほうが、その時の一禾にとっては大切だった。一禾は生活をある程度の水準まで引き上げるために、パトロンたちと仲良くやっている。ただ理由はそれだけではなかった。彼女たちと過ごせば彼女達が普段口にしているものと、殆ど同じレベルの物を食べることが出来る。丁度こんな風にして、自分ひとりでは決して来ることが出来ないところへ出入りすることも出来る。一禾には何よりそれを楽しみにしている節がある。口に含んだ掬ったソースだけの、酸味がある中の甘さを味覚が捉えたが、一禾はそれに眉間に皺を寄せたまま首を小さく傾げた。
「君は随分神妙に食事をするんだね」
「え、あ・・・すいません」
「いや、知見を広げるのは大いに結構。多分にそれはマンゴーだよ」
「・・・はぁ・・・」
それにまた曖昧な相槌が口から漏れだして、余りに幼稚だったことを後で恥じた。最早分析するのは癖みたいなものだった。何度か別の女の人に一禾は余り美味しそうな顔をしないのねと言われたことがあったが、やはり一緒に食事をする人間にとって、好ましくない態度であることは否めない。一禾は反省して椅子の上、しゃんと背筋を伸ばした。桜庭は向いで、自棄にそれらしい物言いをした。そこで一禾は桜庭が大学教授だったことを今更思い出して、見に行こうと思っていた講演の名前を記憶の中手繰ったが、流石にもうそこまでは覚えていなかった。ただ見に行った同じ学部の友人が面白かったと言っていたのだけは、近しい記憶として一禾の中に残っている。詳しい内容を聞いておけば良かったと思って、その時一禾は幾らか後悔した。
「先生、専門は何をなさっているんですか」
「そんな詰まらない話をするのかい。面倒だなぁ」
「・・・すいません・・・」
「それに先生は止めてくれないか、僕は君の先生ではないし」
「・・・桜庭さん」
しかし桜庭はあっさりと、一禾のそんな懸念を「面倒臭い」の一言で片付けた。学術的な小難しい話をされたら困るのは、一禾も同じである。口先は謝ったが、心中はほっとしていた。ただ一禾の知っている教授という人間は、自分の専門についてやたらと語りたがり、知識が浅いとそれを小馬鹿にするのが常だと理解していたので、そういう意味では桜庭の反応は新鮮だった。それよりも桜庭が気にしたのは名前のほうで、先刻から君としか自分は呼びかけないくせに、随分横暴な物言いだと思いながら、一禾は仕方なく譲歩する意味も込めて苗字に敬称をつけた。自棄に薄ら寒く聞こえたのは一禾だけだったらしい、桜庭はそれに物足りない顔をしながら、どういう意味の返答か読めなかったが、ややあって頷いた。
「玲子のことは何と呼んでいるんだい」
「・・・え?」
自棄に自然な流れで出てきた桜庭の娘の名前に、一禾は一瞬聞き間違いかと思って、気付けばそう問い返していた。先刻まで頑なにそれは閉じられていた情報であったはずだった。少なくとも一禾の認識ではそうだった。お互い触れたいところなのに、牽制しあっているせいなのか、その一番重要部分を見ないふりを続けている。そんなことに意味があるとは思えなかったが、先に折れるのは何だか癪だとも考えていた。しかし桜庭はあっさりそれに触れて、一禾に無言の返答を促してくる。どうやら聞き間違いなどではないらしい。いつの間にか、喉はからからに渇いている。湿らす意味も込めて、一禾は唾液を飲み込んだ。
「・・・玲子さん」
「成る程、悪くないね」
「・・・もっと他に、聞くべきことがあるんじゃないですか」
「聞いて欲しいかい」
「・・・いえ、別にそういう意味じゃ・・・―――」
「聞いて、叱って欲しいんだろう」
「・・・―――」
目の前が揺らいだ。しかし揺らいだ奥で、桜庭は全く変わらぬ存在感を示している。そうだったら幾分も楽だろうと思った。そういう形の正当性を主張されれば、一禾だってそれを受け止める覚悟は出来ていた。だから頭ではそんなことは今更の事実だと思いながらも、体は抵抗せずにここに居るのかもしれない。しかし桜庭は飄々とした掴みどころのない言動のまま、ただこちらの思惑ばかりを見透かして、そこに居るだけだった。一体何が目的なのか、いやそんなことを考えていたのは一禾だけで、元々桜庭に目的や意図などないのかもしれない。娘が心配ではないのかと一禾は言った、それは確かに自らの行動に反することだったが、心配すべきだと思ったからだ。だから言った。しかし桜庭は、何も言わないのだ。
「そうして楽になるつもりだろう。だったら僕は君を叱ったりしない」
「・・・どういう意味ですか・・・」
「君を楽になんてさせてやらないということだよ」
「・・・―――」
真っ赤な液体が揺れている。一禾はそれに何も言えずにただ見ていた。これこそが報復なのかもしれないと、そして考えは至っている。
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