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花束を持って挨拶に Ⅵ

もうすぐ結婚するという自分の娘、たった一人の娘だからきっと充分過ぎるほどの愛とお金をかけて育てられたのだろう。玲子は少しそういうところがあり、それを見つける度に一禾は言い知れない苦味を覚えた。自分の知らない温かな家庭、それが玲子を取り巻いているような豪勢なものではなくても良かった、そんなものを望んだつもりはなかったのに、気付けば一禾はその温かで穏やかな空気というものを知らないまま今まで育ってしまった。玲子は美しい容姿と卓越した知識を持ち、結婚相手は外資系の社長息子で、その将来というもさえ輝かしく光っている。その玲子が何故自分の手を取ったのか、一禾には分からない。彼女のほんの悪戯心に付き合わせられているのかもしれないが、そんなことはどちらでも良かった。ただ利害が一致していたから、こうして長く付き合うことになったのだろう。けれどクリスマスイブの今日、テーブルの向こうに座っているのは玲子ではなくてその父親だ。その齟齬をどうして良いのか、一禾にはやはり分からない。 「玲子とはいつからだい」 「・・・一年ほど、前からです」 「丁度婚約を決めた頃だな。あの子も息が詰まっていたのかな」 「・・・止めろって言わないんですか」 「うん?」 「もう会うなとか、言わないんですか。俺のことで婚約破棄にでもなったらどうするんですか。玲子さんのこと心配じゃないんですか」 声は静かだったけれど、一禾は自分の中の熱を抑えきれずに、そこにぶちまけてしまっていた。桜庭は先刻までの飄々とした雰囲気を潜めて、どこか神妙に苦しむ一禾のほうをじっと見ていた。それこそが桜庭の見たかった姿なのに、それは何だか痛々しくて見ていられない生々しさを孕んでいた。そうして顎を少し撫でて、桜庭は黙っていた。後悔して白い頬を青くする一禾に掛ける言葉を考えながら、悠長に時間を使っていた。結局また他人のことばかりを考えていると一禾は思ったが、それは仕方のないことだった。そういう経路の人間なのだと自分でいい加減自覚するして、ある程度それを諦めることを覚えなければいけないようだった。桜庭の反応を伺いたかったが、顔を上げて正面からその目を見据えるのが怖くて、俯いたままの視線で白い皿の淵ばかり追っていた。愛されて大事にされていると思った、それを玲子に確かめたことは一度もなかった癖に、むしろそうあるべきだという強い断定の元、何故か一禾は盲目的にそのことを信じていた。 「玲子が幾つか知っているだろう」 「・・・知ってます、けど」 「だったら話は簡単だ。彼女はもう自立した女性だ、君とのことは僕が口を挟む問題ではないんじゃないかな」 「・・・―――」 「意外かい。そんなものだよ、ウチは特に放任的なのかもしれないけどね」 そんなもの、父親とはそんなものなのか。一禾は自棄に軽く放たれた桜庭の回答を、心内で反芻しながらそう思った。しっくりこない理由を知っている、それはただ一禾がそう呼ばれる大人を知らないからだ。愛されているはずだと思った、愛されていなければいけないと思った、恵まれた彼女こそが愛されていないと自分はもっとそれから遠ざけられる、だから怖くて愛されているはずだと思っていた。一禾にはそう思うことしか出来なかった。桜庭の瞳は大人らしくない透き通った色をしていて、それは玲子と同様に見えた。そこに流れている血の繋がりが、見えたのかと思ってどきりとした。 「父親って皆子どもが可愛いんだと思ってました」 「君は可愛がられて育ったのかい」 「・・・覚えていません。物心ついた時には居ませんでしたから」 「そうか、それじゃあ認識を改めることをお勧めするよ」 そう言って桜庭は随分と柔らかく口元を緩めた。一禾もそれにつられて、勝手に口角が上がるのを感じた。意地を張っているつもりはなかったが、ワインでも飲もうかと思って手を伸ばして、一禾はそこでもう一度はたと気付いた。だったら尚更不思議である。桜庭は一禾を叱るつもりも咎めるつもりもないのだとしたら、如何して一禾を呼び出しこんなところでふたりきりで食事などしているのか。桜庭くらいの年齢になれば、クリスマスイブもただの12月24日に過ぎないのかもしれないが。結局根底にあったその疑問の解決に全く至っていない。一禾は伸ばした手を引っ込め、それで膝の上に乗せていたナプキンをぎゅっと握った。 「・・・あの、聞きたいことがあるんですけど」 「何かな、言ってみなさい」 「玲子さんのことじゃなかったら、何で俺を呼び出したりしたんですか」 「それは君に興味があったからだよ」 あっさりと、桜庭は一禾が拍子抜けするくらいあっさりとその口を割った。一禾はそれに一瞬如何答えたら良いのか分からずに、ぽかんとした間の抜けた顔をして桜庭をまじまじと見返してしまった。ボーイが何処からともなくやって来て、桜庭の前の皿と一禾の前の皿を音もなく片付けると颯爽と去って行った。それでもまだ、一禾には良く分からなかった。桜庭は掴みどころのないその言葉を繋げるわけでもなく、ただ酷く穏やかな表情をして一禾の反応を待っているのか、同じように黙っていた。 「そ、れは・・・あの、あのひとと同じ意味で、ですか」 「そう捉えてくれても構わないよ」 「・・・そん、そんな人だとは・・・思わなかった・・・」 「人間は往々にして欲動的に生きているんだ、覚えておきなさい」 「・・・―――」 さも当然のことのように、何の躊躇いも見せずに言い放った桜庭は、またその真紅に濡れたワインを口に含んだ。その姿が提言とは余りに掛け離れたものだったから、一禾はすぐにそれを信用することは出来なかった。そうでなくても桜庭は理解し難いことを先刻から言い連ねている、これだってその一環なのではないのか、結局桜庭も玲子と同じように悪戯心に一禾を呼び出し、からかっているだけではないのか。そう考えると幾分か気分は楽になったが、そう言い切れるほどの自信も材料もなく、一禾は結局ぐるぐると巡る自らの思考に結局は振り回されていた。眼前に座っている桜庭の、他の一体何を信じたら良いのか分からないが、その言葉だけはどうしても信じられそうになかった。一禾は桜庭という男の本質を、完全に理解しているとは勿論思っていなかったが、それは桜庭本人とは余りにも掛け離れ過ぎているとしか考えられなかった。 「何をそんなに驚いているのか、僕には分からないが」 「・・・俺には貴方の言っていることのほうが分かりません」 「君は自分の姿を鏡で見たことがあるのか」 「・・・はい?」 「もう少し自分というものを認知すべきだ。君ほど美しければ、言い寄ってくるのは何も女の子ばかりではないだろう。そんなこと少し考えれば分かることだと思うけれど、君は如何もその認識に欠けるように見える」 「普通・・・そんなこと考えません・・・」 「ならば考えるべきだ。あらゆる可能性というものを知得していれば、自ずと冷静な判断が下せるようになる」 俯いたまま一禾は考えた。確かにそうだ、あの時あの薄暗い研究室で教職にある男に迫られた時、何故あの腕を振り解けなかったのか、後からどう考えても不思議だった。男の脅しが自分を抑圧していたとも思えないし、力が劣っていたわけでもない。条件は全て揃っていたのに、何故か一禾は男の手のひらに撫でられて震えていることしか出来なかった。それは一禾が現在に至るまでの過程の何処かに忘れていた恐怖だった。その一瞬それと確かに対面していたと思う。顔を上げると桜庭はやや神妙な顔をして、一禾のほうを見ていた。目を反らしたい衝動に駆られる。顔が熱くなった、ただ羞恥で心内は一杯だった。 「・・・すみません・・・」 「何故謝るんだい」 「いえ、あの・・・桜庭さん俺のこと心配して下さっていたんでしょう・・・」 「・・・」 「すみません、次からは気を付けるようにします」 「そうしておくといい。それが君のためにもなる」 穏やかな声だった。いつかそんな言葉や声を向けられたことがある。もう忘れてしまったけれど。俯いて下唇を噛んで、涙が出そうだと思ったけれど一禾はそれにただ耐えていた。

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