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花束を持って挨拶に Ⅶ
外はすっかり闇に包まれている。12月の気温が容赦なく肌を突いて、一禾は肩を震わせながら二の腕を撫でた。ちらりと隣を見ると、そこを悠然と立っている桜庭の横顔に視線がぶつかる。父親ほどの年齢の男は、この世の酸いも甘いも知り尽くした顔で、余裕がある穏やかでそれでいてどこか鋭い風貌をしている。一禾は桜庭の視線がここからでは得られないことを悟ってふいとそこから目を反らして、昨晩磨いたばかりで僅かな光をも反射するフォーマルシューズに目線を落とした。ホテルの前ではこれからここで特別な一夜を過ごす予定のカップルや家族が、賑やかに自動扉を次々に潜って中に入っていく姿ばかりが目に付いた。何故かそれには何とも思わない。一禾はもう一度息を吐いて、手のひらをぎゅっと握った。
ややあって地下駐車場から桜庭のものと思われる黒塗りの車がひっそりと現れ、桜庭が隣で控え目に手を上げ運転手に合図を送る。すっと美しい動作を伴って眼前にその車は止まると、中から正装のボーイが出て来て、桜庭に一礼すると鍵を渡した。酒を飲んでおきながらやはり車で帰るつもりなのかと一禾は思ったが、二度目のそれを口に出して良いものなのか分からずに、仕方なく飲み込んでおいた。桜庭はボーイに愛想良くお礼を言うと、完全に彼が去ってしまうまでその背中をじっと見ていた。
「寒いかい」
「・・・いえ、別に」
突然桜庭が振り返ったから、一禾は驚いてその視線から逃れるように眼を泳がせ、曖昧な言葉が口から漏れるのを止められなかった。余りにも稚拙だから止めようと思うのに、不意のことには上手く対応出来なくて焦燥する。桜庭はそれに特別興味がなさそうに頷いている。途端に一禾は恥ずかしくなって顔が熱くなり頬に血が上ったと思ったが、この暗さでは見えていないだろうと踏んで気にしないことに務めた。しかし実際ホテルのロビーから漏れ出す光で、あたりはとても闇とは言い難かった。だから隣に立つ桜庭にはそれがよく見えていたし、その時一禾が何を考えているのか、良く分かっていた。
「もう遅いから君はタクシーで帰りなさい。ホラ、そこにも止まっている」
「・・・あ、はい・・・」
しかし桜庭は敢えてそれを見えていないふりをして、知らない振りをして、それとは全く違うことを言って一禾の拍子抜けたような返事を聞いていた。そしてポケットから財布を取り出すとそこから二枚札を抜き、全く躊躇うことなく一禾に差し出した。一禾はそれに条件反射のように手を伸ばしかけ、はっとしたのか慌てて手を引っ込めた。勿論食事代は桜庭が出したし、一禾もこんなことは慣れているのだろう、それに口を挟む様子はなかった。だとしたらこれもその延長のはずだ。何故かこんな時に迷いだす一禾の目が奥で、忙しなく何かを捕らえようとして動いていた。ややあって一禾は困惑した表情のまま、桜庭を見上げた。
「・・・あの、桜庭さんは・・・」
「僕は締め切り前の原稿が残っているから、部屋に戻ってそれを書くよ。どうしたんだい」
「・・・いえ、あの・・・すいません・・・」
部屋を取っているからと桜庭が言った時、一体この男は何を企んでいるのだと疑った自分が恥ずかしくなって、更に顔が熱くなるのを感じた。口の中でもごもごと謝りながら、またどうして謝っているのかと聞かれたら答えられないなと思いながら、桜庭からそっと視線を外した。桜庭はあの准教授と同じだと暗に言っていたが、あれはただの冗談にやはり過ぎなかったのだと一禾は改めて思った。そもそもそんな人間じゃないと思っていた。玲子の父親だからという部分も確かに大きかったのかもしれないが、あの薄暗い部屋に颯爽と現れた桜庭を、鈍った思考でもきちんと理解していたつもりだった。
「君は馬鹿だ」
「・・・え」
突然、桜庭の言葉というのは往々にしていつも前後の関係など無視して、何の前触れもなくやって来るものだったが、この短時間で一禾はそれをいやというほど知ることになったのだが、反射神経が足りないのか、それに一々反応して一々結局聞き返している。しかし桜庭はそれを咎めることはせずに、くるりとこちらに向き直った。何故かどきりとして一禾はその視線から逃れたいと思った。
「あんなことがあった後なのに、よく知りもしない僕に誘われるままのこのこついて来たりして、本当に気が遠くなるほど馬鹿だ」
「・・・でも、でも桜庭さんはそんな人じゃありません。そんなことくらい俺にだって分かります」
「いいや、君は分かっていない」
「・・・え?」
「君がワインを飲んでいたら、こう簡単には帰していなかったと思うよ。君のグラスには特別度数の高いものを入れて貰っていたから」
「・・・はぁ・・・?」
しかし桜庭は大真面目な顔をして、恐縮する一禾をそうしてやんわりと否定した。一禾はまた唖然とするばかりである。一体どちらなのだともう考えることも出来そうにない。一禾は結局最後までワインに手をつけなかったし、桜庭の言っていることが本当なのか嘘なのか確かめる術がない。ぽかんとしている一禾を見て、桜庭は口元を歪めて酷く可笑しそうに笑うと、一禾の肩をぽんぽんと叩いた。
「ど、どっちなんですか・・・ホントは・・・」
「言っただろう、あらゆる可能性を考えておきなさい」
「・・・そんなこと・・・言われても・・・」
「ホラ、これを。気を付けて帰るんだよ、分かったね」
まだおかしそうに笑っている桜庭は一禾の手のひらに一万円札を二枚握らせると、ぱっと手を離した。一禾はそれを持ったまま、もう如何したら良いのか分からずに、そこにぼんやりと立ち尽くしていた。すると桜庭はホテルのボーイに頼んで回して貰った車のトランクをおもむろに開けて、そこから白い花を取り出した。帰るつもりのない桜庭が何故車をわざわざ地下から出して貰っていたのか、何か忘れ物でもしたのかとその背中を見ていたが、桜庭の右手握られているのは如何見ても小振りの白い花束だった。
「これを君に上げよう」
そうして一禾の返答を聞くより早く、桜庭は先刻お金を一禾に渡したのと同じ要領で、今度は左手にその花束を握らせた。そうして簡単に一禾のものになったそれは、一禾がその方面に精通していないせいかもしれないが、見たことのない白い花だった。一禾がやはり桜庭の一貫性のない行動に、如何したら良いのか分からないままただ困惑していた。しかし桜庭は一禾にそれを渡すと、もうそれで用は済んだとでも言いたげに、そそくさと開けっ放しだったトランクを閉めていた。一禾の視線を感じながら敢えてそれを無視し続けていた桜庭だったが、そこでようやく酷く勿体をつけながらもゆっくり振り返った。そうして暫く一連のことに唖然として言葉も無い一禾を黙って見ていたが、やがて満足したのかひとつ頷いた。
「思ったより君は白が似合わないね」
「・・・え・・・」
「まぁ良い。今日はクリスマスイブだろう。それは僕からのプレゼントだよ」
「・・・あ、有難う御座います」
「気をつけて帰りなさい、上月くん」
そう言って桜庭はにこりと微笑んだ。車や時計ではないところが、とても桜庭らしいと一禾には思えたし好感も持てた。どうして今日ここに来たのか、来ることになったのか、来ようと思ったのか、一禾は自分の行動ながらそれに自身が納得出来るような説明が出来なかった。そこには自分の意思以外のものが働いている気がして、何だか気味が悪いと思ったこともあった。けれど、結局は思い知らされただけだった、自らの不甲斐無さと無力さを。そうして一禾はそこに突っ立ったまま、ホテルに帰っていく桜庭の広い背中をじっと見ていた。男は何でも知っていそうな顔をして、滲み出る余裕を隠そうともせずに、その日一禾と対峙していた。桜庭の言動から考えれば、あるべき姿としての父親かどうかは疑わしいかもしれないが、それは確かにひとりの大人の男だった。どうすればそうなれるのだろう、どうすればそこまで辿り着けるのだろう。
まだ分からなくて一禾は、そこに立ち止まっている。
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