150 / 302
アンダーザサン
「あれ、一禾は?」
上階から降りて来た染は、一禾のものであるシンプルな黒いエプロンを体に巻きつけ、キッチンに立つ紅夜を見つけて開口一番そう言った。ホテルでキッチンに立つのはひとりと誰が決めたのか分からないが、暗黙の了解がいつの間にかホテルの空気を支配している。それをホテルに住んでいる身としては、紅夜も充分過ぎるほど熟知していたので、その時の染は確かに尤もな反応だったように思うが、何故かそれに紅夜は無意識にむっとして眉間に皺を寄せた。その相手が染だったのが、おそらく良くなかったのだろう。この狭い空間の中でも一禾のことばかりを探し追いかけて、見当たらないと突如として不安そうな顔をする。成人の大学生相手に遊園地の迷子みたいだと思いながら、呆れて溜め息を吐く。そうして紅夜は鍋の中に視線を落としたまま、それに返事をするのをすっかり忘れていた。二度目の染の悲愴な声に、そして我に返る。
「なぁ、一禾は?」
「いちかいちかって・・・染さんはそれしか言わへんのか」
「だって紅夜が・・・なぁ、どこ行ったんだよ。さっき一緒に帰って来たのに・・・」
途中で曖昧に途切れる染の言い訳めいた呟きを聞き流しながら、先刻まで一禾が触っていた横レードルに手をかけ、いい具合で煮詰まってきたビーフシチューを掻き混ぜる。殆どの工程を粗方一禾がやっていたせいもあって、紅夜がそれほど大袈裟に手を加えることもなく、それは実に美味に仕上がっていた。ビーフシチューの方は良いのだが、なぜか一禾はもう一品に味噌汁を選び、それを沸騰させてしまっていた。焦げたなめこが、ステンレスの鍋の淵に張り付いている。いつもなら一禾に限ってそんなことは絶対に無いはずなのに、今日の一禾はどうしたものか様子がおかしく、声をかけたときもどこか上の空で焦点の合わない目で、辛うじて紅夜の呼びかけにも返答していた姿が思い出される。紅夜はその一禾の調子も勿論気になったが、それよりも今は目先の夕食のことの方が心配の種である。一禾はホテルの中でも特別頼れる存在だったし、そのいい加減な女性遍歴を除けば、紅夜は一禾のことを慕っていたし頼りにしていた。ただそれは染のような依存とは似ても似つかぬところにある感情だ。思いながら溜め息を吐くと、染がカウンター越しにびくりと背中を震わせた。
「一禾さん、何か調子悪そうやったから代わってん。今頃自分の部屋で寝てるんちゃうかな」
「・・・調子悪そう・・・?」
「そや、一緒に帰って来たのに気付かへんかったん?」
「・・・―――」
もともと白い頬を更に青に変えて、染は無言で首を振った。面倒臭いことにならなければ良いがと、それを見ながら紅夜は過ぎてしまったことではあったが、これを染に言ってしまって良かったのかどうか考えていた。染の体調が優れないことは仮病の場合も含めて比較的多いのだが、そういえばその染を除くホテルの人間は余程丈夫に出来ているのか、思い出せる限り余り体調を崩さない。尤も夏衣は日々この談話室でごろごろしているだけで、失礼な話だがどう考えても病気になどなりそうにない。更に京義に関して言えば、あの睡魔からの魅入られようから考えると、少々病的といっても良いのかもしれないが、京義は体調が優れていても優れていなくても、無表情で欠伸をしているのだ、決まっている。だが一禾はそれに輪をかけていつも完璧なまでに整然としており、どちらかといえば染の体調を心配したり叱責したりしていることが多い。その一禾が体調を崩すなどと考えられなかったが、日々の多忙具合を考慮に入れると尤もとも思えるのだった。
「・・・ど、どうしよう・・・俺見て来たほうが良いかな・・・」
「そっとしといた方が良いんちゃうの。それより皿のひとつでも出したらどうやねん」
「あ、御免。俺も手伝う」
「や、染さんは手伝わんでもええから、皿出しといて」
一度夏衣と染と紅夜でカレー作りをした時のことを思い出して、紅夜はやんわりとした口調でしかしはっきり染の申し出を断わった。
イレギュラーなことに見舞われ、夕食時を少し過ぎてしまったが、ダイニングテーブルには白い皿にビーフシチューが注がれ、その頃になると談話室はいつもの美味しそうな匂いで充満していた。しかしそのビーフシチューの隣には、何故か純和風の器になめこの味噌汁が注がれている。一禾はやはり体調が優れないのだろう、時間になっても降りてくる気配がないので、呼びに行くと煩く言い続ける染を宥めて、一応はそっとしておくことにした。珍しく自室に居たらしい夏衣と、どうせまた眠っていたのだろう、眠そうな京義が揃ったところで、一禾抜きの夕食がそうして穏やかにはじまった。
「・・・そっかー、一禾大丈夫かな。心配だね」
「何かぼんやりしてたみたいやから、もしかしたら熱でもあるかもしらんけど、顔色も良うなかったし」
「そうだっけ・・・全然気付かなかった・・・」
余程ショックなのか、むしろショックを受けるべきは、その体調の悪さを気付かれなかった一禾だとも思うが、俯いて染はぶつぶつと泣き言を繰り返している。その隣、いつも一禾が座っている椅子はぽっかりとその主人を失った大袈裟な喪失感が漂っていたが、それは多分隣でうじうじとし続けている染のせいだろう。仕様がない染の頭を若干嬉しそうに撫でてあやしていた夏衣だったが、その染が用意した銀色の大き目のスプーンを掴んで、はたと今日の夕食のラインナップのおかしさに気付いた。ちらりと今日の、そして今日限りと思われる、料理担当である紅夜を見たが、このおかしさは勿論紅夜のせいではない。
「・・・でもなんでビーフシチューと味噌汁なの・・・」
「やんなー、俺もそう思ったわ。やっぱ一禾さんぼーっとしてたんやって」
「どっちも汁物じゃん・・・」
「でもな、勿体無いからこれ食べとこ。一回沸騰させてしもたけど、まぁ食べられんことないやろ」
まだ高校生の癖にやたらと適応力の高い紅夜は、そう言って自らが調理に加担したこともあるのだろうが、平然と味噌汁を啜った。見た目のおかしさには逆らえないが、それしかないのだから仕方なく、なんて考えていることが知れると紅夜に怒られそうだったので、一応納得したふりをして夏衣もビーフシチューを口に入れる。しかしそれは夏衣の予想を遥かに裏切って、普通に美味しかった。失礼ながら驚いて顔を上げると、夕食に何が並んでいるかよりも夢の世界に興味があるらしい京義が、テーブルに突っ伏して完全に眠ってしまっているのが見えた。それを紅夜が肘で突きながら、覚醒を促しているようだったが、京義の場合談話室まで降りて来て、テーブルに着いたからといって食事を取るとは限らないのである。
「ホラ、京義も寝てんと食べや」
「・・・」
どうやらそれはいつものように徒労に終わるようだ。本人に少しでも起きる気がないと、京義の場合誰が起こしても大体同じ結果にしか終わらないのだ。テーブルで眠っていたせいで、夜も深まる時間帯にひとりで夕食をとっていることも京義に関して言えば珍しくない。一禾は染と夏衣には厳しいことを言っているが、京義に対してそういう側面に限ってやたらと甘い。紅夜も口ではそんなことを言いながらも、真剣に起こそうとしているわけではないらしいということぐらい、見ていれば歴然としている。
「でもさ、紅夜くんって料理出来たんだね」
「まぁ、一禾さんほどやないけど、簡単な奴やったら一通りはな」
「そっか。じゃぁ一禾が出て行っても安心だね。良かったね、染ちゃん。俺たち食いっぱぐれなくて!」
「もう・・・ナツ嫌いだ・・・し・・・」
「どうしたのー、もっと明るい顔しようよー」
「・・・そのへんにしといたったら・・・ナツさん」
当て付けのようにも見える自棄に明るい笑顔で、夏衣は頭を垂れたまま染の青白い頬を突く。染はそれに嫌悪感を込めて眉を顰めはしたが、振り払う元気はないような萎れた声で、それでもぼそぼそと言い返している。流石に染が可哀想になって、紅夜は半分以上呆れながら緩く夏衣に制止を促すものの、夏衣は更に笑みを深くして面白がって染の頬を突くのを止めない。京義はその誰とも違う次元で、ダイニングテーブルに右頬をしっかりと押し付け、ただ純粋に睡眠を貪っている。一禾がいたら怒鳴られているような情景だけれど、その日ホテルは、それはそれで穏やかな夕食を迎えていた。
ともだちにシェアしよう!