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音凍る睦月の朝

窓を開けるときんと冷えた空気が、無防備な肌に突き刺さった。思わず震える温度が口から喉から、体の中に侵入してくる。気持ちの良い朝だった。ポストの中に手を突っ込むといつものダイレクトメールを指が捉える。今日の新聞は休刊だ。捨てないでよ、と昨日夏衣に一禾が言っていたのを覚えている。放っておくと端から冷える体を気休め程度に摩って温め、急ぎ足でもと来た道を戻り、白いポーチを潜ってホテルの中に入った。気のせいかもしれないが、そこにはいつもはない厳かな雰囲気が漂っている。 「お早う御座います」 「おはよ、それからおめでと」 談話室に入ると一禾が既に起き出して、朝食の準備をしているようだった。それにいつもより畏まった挨拶をすると、一禾は笑いながらお玉を持った手をそっと上げた。眠そうな夏衣もちゃんと着替えて幾分だらしない格好にはなっているが、テーブルに着席している。京義が見えないのはいつものことで、行事ごとにも特に関心を示さないあたりがそれらしい。しかし今日は昼まで安眠出来そうにないだろう。思いながら紅夜は、ダイレクトメールを夏衣の目の前に置いた。 「おはよー、紅夜くん」 「お早う御座います、あとおめでとう御座います」 「あぁ、うん。おめでとー。ねぇ、一禾ホントに行くのー?」 眼鏡の奥の目を眠そうに瞬いた夏衣は、肘を突いた格好で赤と金色の装飾の目立つダイレクトメールをぱっぱと片付けていく。夏衣は比較的朝から起きていることが多かったが、余り朝は得意ではないのだろう、京義ほどではないが眠そうにしていることが大半である。夏衣の間延びした問いかけに一禾は火の調子を屈んで確認しながら、キッチンの中からこちらを見ることもなく返事をした。 「行くよー、こういうのは最初が肝心なんだから」 「えぇー・・・絶対人多いじゃん、染ちゃん失神するよー」 「最悪あの子は置いていくしかない」 「俺も留守番が良いなぁ・・・」 明けて今日から年が変わる。その緊張感のない空気の中、夏衣は欠伸をしながら結局ダイレクトメールをひとつも明けないで、数分もしないうちにティッシュの横の定位置に追いやった。初詣に行こうと言い出したのは、そもそも一禾だった。一禾らしくない突然の思い付きだった。紅夜は初詣に行ったことがなかったので、人の多さや騒々しさの危惧はあったが、それよりも楽しそうなその響に心を完全に持っていかれてすぐに賛同した。夏衣は皆が行くなら行こうかなと、優柔不断な発言をし、一禾に睨まれていた。勿論のことだが染は大反対し、しかしやはり予定調和のようにそれに耳を貸すものは居なかった。京義が果たしてどう思っていたのか分からないが、相変わらずの無表情で興味の無さそうな顔をしていた。しかし京義は何分流されやすい性格なので、行くと決まったらきっと連れて行かれるのだろうなと紅夜はそれに苦笑していた。 そんなわけで、各々思いは違えど、初詣に行くことは決定事項となっていた。 「だって行ったって何にも面白くないよー」 「何で、面白いじゃん。おみくじ引いたりしてさ、楽しいよ」 「一禾が袴を穿いてくれるなら行っても良いけどー」 「は、何言ってんの?」 「紅夜くんでも良いよ、俺すぐに手配しちゃうからね。ね、ね、どう?」 「やー・・・えらい目立つでそんなん着て行ったら・・・」 「じゃぁ部屋の中だけで良いから!行く時は普通の服でも良いから!」 「本末転倒やな・・・、何のために着るねん・・・」 「俺が見たいから!」 「はい、黙ってー」 振り返ると一禾は、言葉の暴力性とは無関係の良い笑顔でこちらを見ていた。夏衣がそれに唇を尖らせるが、眠たいこともあるのだろう、それ以上は反論しなかった。ややあって火を止めた一禾は、鍋の中のものを手際よく器に移している。カウンターに和柄の器が置かれて、紅夜は立ち上がった。そっと持ち上げてテーブルに置くと、中はピンクのかまぼこと三つ葉と餅、見た目も美しい雑煮が入っていた。それを見ているだけで今日が特別な日なのだと分かって嬉しかった。不貞腐れていた夏衣もそれを覗き込んで、短く感嘆の声を上げる。 「朝っぱらから何やってんのかと思ってたら、これ作ってたの?」 「うん、まぁね。気分出るでしょ」 「美味しそうやなぁ」 「昼は御節だから覚悟しといて」 「そういや妙に高い重箱買ってたよね・・・一禾」 「一回作ってみたかったんだよねー、本格的に!」 こと料理になると一禾はやたらと拘りを見せる。普段はそんなに物事や周りのことにそんなに執着を見せるわけでもないから、それだけが一禾の中で妙に浮いた存在になっているので、目に付くのかもしれない。そうだからきっとクリスマスの夜は七面鳥を丸焼きと思って帰ってくると、何故か普通にカレーだったりする。それに一貫性がないことには、時々驚かされるが、往々にして挑戦と名のつく料理でも一禾は難なくそれらしく作っていたから、その御節だってきっと美味しいに決まっているのだ。それは食べるまでもなく。 「そんなの普通の皿で良いじゃん・・・雰囲気重視し過ぎなんだよー」 「分かったよ。じゃぁナツのは普通のお皿に盛り付けてあげる。それで文句ないでしょ」 「何でそんな意地悪すんのー、酷いよ!」 じゃぁ黙っていてときっぱり言う一禾に、またも反論の余地を奪われて、夏衣は机に突っ伏してそれきり動かなくなった。 「い、一禾さん・・・」 「ほっとけば。そろそろ染ちゃんと京義起こさないと。紅夜くんも手伝って」 「あぁ、うん」 机に伏せたままぴくりともしなくなった夏衣は不気味ではあるが、返事をしながら紅夜が椅子を引いて立ち上がると同時に、談話室の扉が開いて目を擦りながら染が姿を現した。初詣に行く気はさらさら無いくせに、何の予防線かきちんと服を着替えている。一禾はエプロンで手を拭きながらキッチンを出て行こうとしていたが、やって来た染を見てくるりと中に戻った。 「染さん、おはよ」 「おー・・・まだ眠いし、マジで行くのかよー・・・」 「染ちゃん家で待ってても良いよ、おみくじは俺が代わりに引いといてあげる」 「それ意味あるん・・・」 「マジで?何か一禾今年優しい・・・」 「や、はじまったばっかりやろ」 流石に男女入り乱れる人ごみは染の一番苦手といっても過言ではないほどの、染にとっては難関なのである。一禾も初詣を提案した頃から染を連れて行く算段ではなかったのだろう。だから染が嫌がっても無視はしていたものの、無理強いすることはなかった。きらきらと染が眩しいばかりのオーラを飛ばしていた頃、染が起きて来たことを器用に察知した夏衣ががばりと顔を上げた。突然のことに紅夜は吃驚して無意識に肩が跳ねたが、夏衣はそのままの勢いで椅子をがたがたいわせながら立ち上がった。 「染ちゃん、袴着る気ないかな!俺脱がしたくて堪らないんだけど!」 「まだ言ってんの、諦めなよ、いい加減!」 年が明けてもホテルはいつもの調子である。それに呆れながら安心して、紅夜は雑煮が冷めないうちに食べられる雰囲気まで落ち着くことを願った。

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