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邪魔物は消せ Ⅰ

本家は京都市内に位置している。そのあたり一帯では有名な白鳥本家の屋敷だったが、それはただの古めかしい日本家屋でやたらと大規模であることを除けば、普通の民家の並列に位置している。夏衣に呼び出しがかかったのは、正月を少し過ぎた頃だった。白鳥はそういった節目の行事を、余り特別視しない。そんなことと自分たちの生活は切り離されていると考えているのだ。だからこそ夏衣が呼ばれたのは元旦ではなく、それが過ぎた頃合だったのだろう。三ヶ月ほどぶりに、夏衣は迎えの車で屋敷まで帰っていた。近所への体裁のみの考えで、玄関には立派な門松が飾ってある。使用人が扉を開けて、夏衣は黙ったままそれを潜った。 「御待ちしておりました」 頭に白髪の目立ち始めた初老の男は、そう言ってまだ20代の夏衣に仰々しくお辞儀をした。彼を筆頭とする黒服が5人ほど、本家の人間に声をかけることを禁じられているのだろう、黙ったままその奥で額を床につけている。使用人にも使用人なりの階級が存在し、本家の人間に面通しすることが出来るのは、それなりの家柄と実力を兼ね備えた人間だけに限られている。夏衣にとってそれはいつものことだったので、特に反応を見せずに着ていたコートを脱いだ。後ろにスタンバイしていた運転手が、自然な動作でそれを受け取る。コートの下はいつもの黒いスーツだった。玄関に上がるとおもむろに男が立ち上がって、夏衣を誘導するように少し先を歩く。自分の家を誰かに案内されているなんて、どう考えてもおかしいと思うが、もうずっとこんな風習の中で生きていたら、何が正しくて何が間違っているのかなんて良く分からない上に、今更どうでも良いことだった。 初老の男、名前は鮫島(サメジマ)といってこの間夏衣の世話係筆頭になったばかりだが、もうずっと白鳥に仕えている家柄でもあったし、それまでは夏衣よりずっと手のかかる春樹の身の回りの世話をやっていたこともあって、鮫島に関して特に夏衣が心配することはなかった。諸事情で徳川が夏衣の世話係を外れることになったが、夏衣自身は寧ろこうなったことに安堵さえしていた。 「お部屋で御座います」 「あぁ、有難う」 膝を突いて障子を開くと、鮫島は廊下でまた夏衣に頭を下げる。夏衣はそれをいつもの感じでさらりと流すと、特別なものは何もない部屋に入った。着替えようとしてスーツの上着を取ると、背中越しに鮫島がすっと障子を閉めるのが気配で分かった。夏衣の部屋からは美しく手入れされた中庭が見える。偽物の緑と水でも完璧に仕上げれば、それは時折本物にも勝るのだと思わせる。夏衣は箪笥を引き、一番上にあった紫紺の着物を引っ張り出し、手慣れた手付きでそれに腕を通した。本家の人間は屋敷にいる間、大体着物を着ていることが多い。最近では、秋乃なんかは外にスーツで出向くようにもなっているようだが、洋服よりも昔から着慣れている着物の方が楽で良いというのが、その第一の理由であった。 「夏衣様」 「ん?」 「お話宜しいでしょうか」 「どうぞ」 閉まったままの障子に、ぼんやりと影が映っている。鮫島がそこを立ち退かないことはおかしいと思っていたが、別に咎めることでもないかと思って放っておいたが、ややあって鮫島はその声を響かせる。夏衣は帯を直しながら、それに色の篭っていない声ですぐさま返答する。 「皆様先日から留守にされております」 「・・・皆?」 「はい、何でも大きい会合があるからということで、本家の皆様は残らずそちらに出向かれました」 「へぇ・・・」 何かを読み上げるような鮫島の流暢な答えに、夏衣はひとつ興味のない声を漏らした。白鳥は何かといって、よくその需要の不明な会合に出向いている。当主が体を悪くしてからは、長女の秋乃が駆り出されることが多かったが、夏衣も何度か東京で開かれた時などは出かけたことがある。内容は良く覚えていないから、相当詰まらないものだったに違いない。春樹はまだ若年であるということを理由に、何度も候補に挙がるものの、結局は本家で待機という姿勢が多いらしい。しかし、全員が出向いているというのは幾分か珍しかった。そう言われてみれば、屋敷の中にあるいつも緊迫した空気が幾らか和んでいるようにも感じる。 「・・・お父さまも?」 「はい、当主様も行かれております」 「どうりで、何か静かなのはそのせいか・・・」 「暫く留守にするとのことで、後のことは夏衣様にお任せすると言うことです」 「うん、分かったよ」 当主であるその男が、体を悪くしたのはいつ頃のことだっただろう。それ以来男が屋敷から出ることは少なくなった。それどころから最近は、屋敷の一番奥にある自らの寝室から動こうとしていないようだった。これは一体何がどう好転したのか、そもそも好転しているのか、夏衣は考えながらそれには愛想良く返事をした。今後白鳥がどの方向に向かおうとも、自らがやることはひとつであると夏衣は知っている。そうしてそれは若干の諦めとともに、夏衣の心の根底に居座り続けている。 「お疲れのところ申し訳ありませんでした。ゆっくりお休み下さいませ」 「・・・あぁ、有難う」 障子の向こうで鮫島が立ち上がる気配がして、やがて黒い影は夏衣の見えるところから立ち去ってしまった。お休み下さいと言われても、何をすれば良いのか全く思いつかなくて、夏衣は藺草の匂いのする部屋の中でただぼんやりと夜が訪れるのを待っていた。

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