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邪魔物は消せ Ⅱ

翌日、本当にすることがなくて、昔使っていた夏衣は書道の道具を引っ張り出し、東京に送る文書を清書していた。正座をして背筋を伸ばすと、そこには妙な緊張感が生まれる。和紙に草書体で決まりきった文章を書いていく。こんなことはしなくて良いと言われたが、他にすることもなく暇なのでやらせてくれと頼んだものだった。夏衣はふと筆を止めて、今は整然と閉められている障子のほうを見やった。本当にここに帰って来てもやることなど自分には用意されていないのだと分かってはいたが、今回のことでそれを余計に痛感している。ひとつ溜め息を吐いて筆を置いた。妙に目が凝っている。久しぶりに引っ張り出したせいなのか、夏衣は考えながら書きかけの文書の和紙をそっと机の端に押しやった。 「失礼致します、夏衣様」 丁度その時、鮫島の声がして夏衣はぱっと顔を上げた。すると障子の向こうに、廊下に座っているらしい影がぼんやりと写っている。夏衣はそれに目をやって、何となく鮫島の声がいつもとは違って聞こえたから、その神妙さに思わず眉を寄せた。幾ら暇だといっても夏衣に留守が任されている白鳥で、余計なことなど起こって欲しくないというのが本心であった。 「どうしたの」 「院家の方がお出でで御座います」 「院家?誰だろう・・・」 院家とは遊楽院家の通称で、白鳥を崇拝する御三家と呼ばれる組織の一角を担っており、白鳥にとっては特に深い関係にある家柄のひとつであった。ということは当然、今回の会合にトップ及び本家の重要事項を握る人間は、ここ白鳥と同じように出払っているに違いない。それを敢えてここにやって来たということは、白鳥にというよりもむしろ自分に用があるのではないかと夏衣は思いながら、首を捻った。出来る限り厄介ごとは御免であるが、院家ならば通さないわけにはいかない。 「良いよ、今は俺しかいないけど、俺で良かったら話を聞く。通してあげて」 「畏まりました」 何の音も立てずに鮫島が立ち上がり、そのまま廊下を滑るように歩いて行って影は消えてしまった。どうか面倒臭い用件ではありませんようにと、夏衣はぼんやり天井を見ながら思った。いつ来ても自らの部屋のはずのそこの天井は、見慣れないものである。 ややあってから鮫島とふたりの青年がやって来た。今度は廊下ではなく正面の襖を開けて、奥まで見渡せる格好になっており、そこに膝を突いて座っている。夏衣の目の前には使用人が三人がかりで持ってきた薄く白い幕が掛かっており、夏衣のほうからは二人の様子が見えるが、向こうからは見えないようになっている。それは白鳥本家の人間である夏衣に謁見出来ないということで、男たちが大した階級ではないことを暗に示しており、やはり直接指揮を取っている上の人間は、皆会合に行っているものと思われた。 「突然の訪問お許しくださいませ」 「本日は夏衣様に是非お聞きしたいことがあり、参りました」 「どうぞ、俺で分かることで良かったら答えますけど」 男たちは深々と頭を下げたまま、台詞を割り振っているかのように、随分な調子の良さでそこまでを言い切ったが、夏衣が簡単にそれを承諾すると、意外だったのかうろたえたような沈黙が僅か流れた。その間片方の男が顔を上げようとして、まだ右の男が微動にしていないことに気付き、慌てて頭を下げた。鮫島がすっと夏衣のほうに目をやる。夏衣はそれに手の動作だけで席を外すに命じた。何となく予想はしていたが、どうもこの感じでは良さそうな話ではない。院家も切羽詰っており、こんな下級の使用人を夏衣のところに遣している。白鳥に知れたら一体どんなお咎めが下るのか、分かったものではない。しかしそのようなリスキーな選択を院家にさせるほどに、事は緊急を極めているということらしい。これは夏衣の世話係筆頭である鮫島といえども、他の人間には聞かれは不味い話なのかもしれない。鮫島は英明らしい敏感さでそれを寸時に察知し、すっと立ち上がって廊下側の障子を開き、やはり音も無駄な動作もなく出て行った。男たちもそれを一度も顔を上げないままで、理解しているようだった。鮫島が出て行くと片方の男は決心したように顔を上げた。 「恐れながら申し上げます」 「先日から賢司様が行方知れずになっております」 「・・・―――」 成る程、用件はそれだったのか。夏衣はひとつ小さく頷いたが、それは目の前のことに必死な男たちには見えていないだろう。それにしても院家らしからぬ対応の遅さである。賢司が夏衣のところに遣って来て、そして去って行ってからもう暫く立っている。賢司を家の中でどう取り扱うかで、これはひと悶着あったと見える。元々賢司はあんな格好をして出歩いていたものだから、変態長男と影で言われており、院家にとっても実子であろうが、むしろ実子であるからこそ、賢司は煩わしい存在であったに違いない。賢司の発言から推測するに、もう出て行く直前にまでなると、屋敷中の人間から疎外されていたとも考えられる。それを居なくなったからといって必死に探すのも、憚られたのだろう。家柄を重んじる御三家らしい馬鹿なプライドだ。 「そうか、それは知らなかったよ」 「まだ非公開の情報ですので」 「それで、白鳥に何の用、まさか探すのを手伝えって言うんじゃないだろうね」 男のこめかみがぴくりと痙攣した。夏衣の声に僅かな怒気が孕んでいることを、気付いたのかもしれない。 「勿論、そのようなことを申すつもりはありません」 「お聞きしたいのは夏衣様、個人的にで御座います」 「・・・」 どちらにしろ嫌な質問だ。今まで蔑ろにしていたのは自分たちだろうがと、怒鳴ってやっても良かったように思う。しかしそれが白鳥の正しい対応なのかと言われると、首を傾げることになるだろう。夏衣は叫びたいのを我慢していた。賢司の笑っていた顔が都合の良い脳裏で再生される。賢司は一度も言わなかった。誰にも理解されないと、理解されていない、それどころか疎外されている。一度も言わなかったから、夏衣も聞くことが出来なかった。本当に辛い時に辛いとも言えない友達である自分に、ただ腹が立ってその時無力を知った。そんな自分に比べれば、賢司はずっともっと高いところを見ていた。羨ましかった。自分もそうなりたいと思っていた。だけどもうその目に会うことは出来ない、二度と出来ない。誰かが奪ってしまったせいで。 「どういうこと」 「賢司様が行方を眩ませる前、夏衣様のところに立ち寄ったのではないかと思います」 「行き先をもしかしたらご存知かと思いまして」 「知らない」 真実だった。きっと賢司はもうこの地には居ないのだろうということぐらいしか夏衣には分からなかったし、そんなことは院家が幾ら低能でも分かっていそうなものだった。賢司が上手くやったのか、これは院家も随分と捜索に苦労しているらしい。そう思うと唇が歪むが、どうせ男たちには夏衣の顔が見えていない。賢司はこんなことくらい予想して行ったのだろう、夏衣がまさかべらべらと居場所を喋るとも考えているわけではないと思うが、誰にも知られたくないということは、誰にも言わないのが望ましい。そこに例外など作ってはいけないのだ。それが少し夏衣には寂しくも感じたが、賢司の望んだことならただ笑って頷くだけだ。自分はそれを了承することしか出来ないし、またしないだろうことも分かっている。 「知らない、分かったら帰りなよ。悪いけど君たちと余り話をしていたくない」 「・・・承知致しました。申し訳ありません」 「お時間割いて頂き感謝致します」 「・・・―――」 面倒臭くなって夏衣は溜め息を吐いた。一体どうするつもりなのだろう、自ら切り捨てた長男を探して、一体賢司をどうするつもりなのだろう。立ち上がり去っていく使用人の背中は、気持ちが悪いほど背筋が伸びきっており、夏衣は思わず眉を顰めた。

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