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邪魔物は消せ Ⅲ
外は雨が降っている。夏衣が本家に戻って来てから暫く経つが、院家の人間が尋ねてきたこと以外は全てが予定調和に、狂わずひっそりと行われている。畳の上の色の悪い素足を撫でて、夏衣はひとつ溜め息を吐いた。本当にこの家に居てもすることのひとつも思いつかない。いつも夏衣を縛り付けているあの男が居ないことは、図らずとも夏衣の存在意義を揺るがす事態だった。ただそれには眉を顰めるしかないことも自覚している。自分がこの家の中で、この組織の中で、一体どういう位置づけになっているのか、夏衣はこれでも理解している。春樹のことを気に掛けるよりも、家の状態を正確に把握するよりも、男の下で鳴いていることのほうが多い。あの男はそうすることで暗に示しているのだ。一番奥の白鳥の寝室を、嬌声を漏れない造りにするのは簡単なことなのに、それを敢えて男はしないで夏衣に高い声を響かせている。響かせ続けているのだ。
もう一度素足を撫でて、夏衣は目を中庭にやった。雨が降り注ぐそこは、いつもより不自然さが拭われているようにも見えた。する遠くの廊下から鮫島が歩いてくるのが見えて、夏衣はすっと中庭から目を反らした。いつものように音も無く鮫島は近づいてきて、今日は開いている障子の横にすっと膝を突いた。誰か来たのかもしれないと夏衣は鮫島の発する気配だけでそれを器用に読み取った。
「失礼致します、夏衣様」
「どうしたの」
「卯月先生がお見えになっております」
「・・・卯月?」
卯月は白鳥の分家、通称月家にあたる家のものであった。分家の人間が本家に顔を出す用事となると大体その家の主が出向くことになっているが、卯月は若年の頃から本家に出入りをしている珍しい人間のひとりだった。理由は憶測済みで、当主である白鳥が特別に卯月のことに目をかけているのだ。それは卯月が白鳥本家の血を引く人間のみが所有する、特有の色を持っているからである。美しく澄み切った桃色の瞳を、何故か卯月は分家の人間であるはずなのに、本家の白鳥と同じように持っていた。それが本家に自由の出入りを許されている卯月の強みでもあり、他の分家から余り良い顔をされない理由でもある。そのこともあって、夏衣は昔から比較的卯月と面会することが昔から多かった。月家は先祖代々からの医者家系で、その内に気付けば卯月もまたその流れに一切逆らうことなく、白衣に身を包む立場の人間になっていた。
「何の用件だろう」
独り言のつもりで夏衣がそう呟いた時だった。
「何でも良いじゃねぇか、そんなことは」
頭を下げる鮫島の後ろから卯月はいつもの気安さで颯爽と現れた。流石に夏衣が驚いていると、鮫島は申し訳無さそうに顔を上げた。しかし卯月の方は全くそんなことは気にしていない風で、夏衣の側までずかずかと畳を踏んで歩くと、どかりと目の前に腰を据え持っていた黒の鞄を側に置いた。きっと中身は医療器具が入っているのだろう。しかしその割には自棄にぞんざいな扱いである。それに渋い顔をしながらも卯月に関しては言っても聞かないことを知っているので、夏衣は鮫島にもう戻るように手の動きだけ伝えると、退出と同時に障子を閉めさせた。雨の中態々やって来た卯月の若干茶色い髪とそれらしく白衣がかかった肩は、少し濡れているようだった。夏衣は鮫島が完全に立ち去ったのを確認すると、もう一度卯月に渋い目を向けた。しかし卯月はやはり全く気にしていない装いのまま、それを鼻の先で笑っただけだった。
「何しに来たの、会合に行ってなかったの」
「わざわざ嫌味聞きに行きたくねぇよ」
「・・・それはそうかもしれないけど」
「そ、俺なんかに目をかけてくれるのは優しい当主様ただひとり」
「・・・」
冗談めかしてそう言い卯月は片目を瞑ったが、夏衣はそれに怪訝な表情しか浮かべられなかった。卯月は親戚だけでなく、大声では皆言わないものの身内のものにも厄介がられている。分家の人間が、本家と同程度の扱いを当主に受けるべきではないと思っているからだろう。分家の人間は分家の人間としてのプライドや立場あるだろうが、それは決して本家と混同されて考えられるものではなかった。卯月は自らの微妙な立ち位置や境遇を面白おかしく語って聞かせるほど低能ではないが、その時夏衣はただ気分が悪かった。するとそれを瞬時に読み取ったのか、卯月は歪めていた口を元に戻して小声で謝った。しかし見やっても卯月は全く悪びれた様子もないまま、鞄の中を漁って聴診器を引っ張り出してそれを首にかけている。
「・・・何なの」
「何なのって回診だろ、早く脱げよ」
当然とでも言いたげな口調で卯月は続けると、聴診器を耳にかけた。夏衣は着物の前を肌蹴ようと引っ張って、はたと気づいて無理矢理に前をあわせ直した。こちらに手を伸ばしかけていた卯月が、驚いて一瞬手を止める。卯月は若いながらも医者として、平常は白鳥が管理する総合病院で働いているらしい。白鳥のものが病気になった時はこの間まで卯月の祖父が来ていたが、老齢を理由に今はもう医者を引退し病院で理事をやっている。代わりに卯月の父親に当たる人間が、正式に専属医として白鳥には出入りしている。しかし夏衣を急に思い立たせて前を合わさせたのは、そんなことではなかった。
「・・・夏衣?」
「嫌だな」
「え?」
伸ばしたままの卯月の腕が震撼して、夏衣は唇の端を上げた。
「だってアイツに散々良いようにされた体だよ、卯月もそんなの見たくないでしょう」
「・・・夏衣・・・」
唇の端を上げて挑戦的に笑って見せると、対照的に卯月は急激に大人しくなって、目蓋を伏せて俯いた。美しいときっと白鳥が会うたびに言っているだろうその瞳にも、そうして影が落ちる。美しく見えても、幾ら美しく見えてもそれは黒々と欲望をその奥に隠している。この瞳が素晴らしいのは、見た目の秀麗さのみであると常々夏衣は思っている。だから卯月は不幸なのだ、持って生まれなくてもいい血筋に折角選ばれながら、そんなものを宿して誕生してしまったこと自体が、全ての不幸を卯月に背負わせている。その卯月は知っている。卯月だけではない、この家に関わる人間は、そうして皆夏衣のことを本家の人間と思いながら、どこか夜毎もう晩年に差し掛かる年齢である男の性欲処理をしていると見下している。夏衣はそれを知っている。そしてそれが真実であるとも自覚している。だから敢えて何も言わないし、何も言うことなどはじめからないのだとも思っている。どちらもただの諦めで、夏衣は殆どそれに支配されている、支配され続けている。目を伏せた卯月は夏衣に掛ける言葉が見当たらないのか、ただ押し黙って何かに耐えている。卯月は色持ち、白鳥特有の色を所有することを本家の人間はそう呼ぶ、であるが分家の生まれで、やはりそこには圧倒的格差が存在している。
「・・・そんなに深刻な顔しないでよ、御免って」
「・・・」
笑いながら夏衣は言った。先刻の卯月も同じような顔をしていただろうかと同時に考える。それが分かっているのか、卯月は依然渋い顔をしたままだった。自分の失態をそうして嘆いているのなら、いい気味だと夏衣は更に笑みを深くして卯月に無言で訴えかける。
「ただの冗談だよ、御免、卯月」
「・・・夏衣、お前」
だから卯月には分からないのだ、永遠に。この家に生まれなかったからという理由で卯月は永遠にそれを理解することが出来ない。しかしそれは悲しいことなんかでは決してない、寧ろ喜ばしいことなのだ。夏衣は前を肌蹴ながらそう思った。出来ればこんな思いをする人間は多く作りたくないし、存在すべきではないと思っている。だから知る必要はなく、また理解する必要もないのだ。
そんなものはとっくに諦めの範疇だ。
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