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邪魔物は消せ Ⅳ

夏衣の目は他の白鳥とは全く違うものだと思っている。それは特別発色が良いことを起因としていることだって、良く分かっている。だけど理屈がこんなにも明白なのに、その双眸に捕らえられると不意に視界が狭まり、息が詰まる。何を考えていたのか分からなくなり、ただぼんやりと見つめているのだ、その怪しい色の輝きを。白鳥が良く夏衣を前にして、平常としていられるものだと半ば感心しながら、卯月は自身を落ち着かせるためにひとつ深く息を吐いた。夏衣の双眸には昔から、今考えるとずっと昔から白鳥を越えた不思議な力があるのではと卯月はひとりで思っている。ゆっくりと聴診器に手を伸ばして、白く骨の浮いた夏衣の体にそっとそれを宛がった。 「・・・随分痩せたな、お前」 「そうかな」 「ちゃんと食ってんのか」 「・・・だって・・・―――」 さらりと榛が形を変えて、図らずとも卯月の指先の上を掠った。思わずそれに手を引っ込めて、何をやっているのだと半ばムキになったように思う。夏衣はそのまま、こちらが辟易してしまうほどの陰鬱な空気を放って顔を伏せた。きっと知っているのだ、何も知らないような顔をして、本当は何もかも知っている。卯月がこの瞬間にも一体何を考えているのか、知って居るくせに知らない振りをしている。以前、夏衣に会ったのはいつ頃だったのだろうとふと思った。祖父と一緒に出向いた時か、それとも父親か。どちらにしても人形みたいな顔をした夏衣は、当主の隣に隠しようもない色香を纏って座っていた。昔から知っているはずのその男が、いつの間にか見知らぬ他人になってしまったようで、卯月はそれに眉を顰めたのを覚えている。その頃夏衣がどういう状況に置かれていたのか分からないが、今はそれが少しは改善されたのかもしれない。夏衣が纏っている雰囲気は相変わらず怪しくいやらしいものではあったが、そこから当時感じた毒々しさは失われていた。 「だって、何を食べてもアイツの精液の味がするんだよ」 一瞬のことで青ざめた卯月に、夏衣は口角をゆっくりと上げて見せた。冗談のつもりなのか、だとしたら全く笑えない。その意味を込めて首を振ると、夏衣は細い体を二つに折って、余程卯月の顔が深刻に見えたのか、酷くおかしそうにくつくつと笑い声を上げた。夏衣が声を上げるたびに薄い胸が上下するのが自棄に生々しく見えて、卯月は思わずそこから目を背けていた。結局夏衣に関しては、直視出来た事実など今まで無かった。誰もがきっとそうなのだろう、だからこれは自分だけの責任ではないとは思うが、だとすれば誰が夏衣を理解していたのか、その腕を取って支えてやっていたのか、そんな折れそうな体をここまで生かしているのか、卯月には分からない。聴診器を持ち上げていた手を力なく下ろして、卯月はもう一度溜め息を吐いた。 「・・・夏衣」 「御免って、怒らないで。退屈だったんだよ、だって誰もいないし」 「そうじゃねぇだろ・・・」 「大丈夫だよ、人払いしてあるから、誰も聞いちゃいない」 「違ぇよ、何でそんな・・・何でお前・・・!」 何と続けて良いのか分からなくて、思わず掴んだ夏衣の肩の線の細さに目の奥が痛い。夏衣は先刻まで笑っていた顔を、卯月の深刻さに触発されたのか、ふいに無表情に戻して苦しみ俯く卯月を見ていた。そうしてすっと卯月の焦げ茶色の髪の毛に指を通した。びくりと卯月の体が反応したのが、指先の感覚を伴って夏衣に伝えられる。やはり外の雨に当てられたのか、その時卯月の髪の毛は少し湿っていた。 「どうして生きているのかって?」 「・・・な・・・」 「どうして死なないのかって?」 「・・・何言ってんだ、お前」 ばっと顔を上げた卯月の動作に合わせて、夏衣は卯月の髪からするりと指を抜くと、夏衣とは違い血色の良い卯月の頬を爪ですっと撫でた。すると卯月の桃色の瞳からそれに誘われるように雫がポロリと零れて、丁度夏衣が撫でたその筋に従って顎まで滑っていった。可哀想で優しいと思った、抱き締めてやりたいと思った。それは母親のような気持ちで、夏衣は母親を知らなかったが憶測は出来た。しかし実行には移せなかった、卯月までもその奥に導いてしまいそうで怖かった。そうでなくてもこの男がそのうちに秘めて隠した自分への気持ちというものを、夏衣は言われるまでもなく理解していた。 「ホントだね、俺もそう思う。いっそ死ねば楽になれるのにね」 「・・・馬鹿なこと言うな、それ以上言うな」 肩を握った手が、おかしいほどに震顫している。奥歯もがちがちと煩く鳴り響いている。下を向けば目の奥に溜まった熱いものが、畳にぽたぽたと落ちていくのが分かった。夏衣が薄々そんなことを考えているだろうことは分かっていた。だけど実際に言葉にされるのとはそれは違うことだ。どうしてそんなに投げやりになっているのか、と説教をすることも出来なくて、その理由も意味も分かっているから余計に悔しいだけで苦しかった。卯月は頬に残る涙を手の甲で拭うと、ある決心とともに顔を上げた。夏衣の目線は卯月にはなく、閉じられた障子の向こうに意味深な哀愁を漂わせて投げかけられていた。 「夏衣、聞いてくれ」 「・・・なに」 卯月がひとつ呼吸を置いて、ゆっくりと目を開いた。 「もうすぐ、白鳥は死ぬ」 「・・・―――」 思わず立ち上がっていた。しかしそんな夏衣と対照的に、眼前に座る卯月は眉の一つも動かさなかった。握った拳がその奥に焦燥を潜めて、ぶるぶると震えている。何と言えば良いのか、一瞬分からなかった。いや、今も分からないままだ。あたりは雨の降る音に満ちていて、それ以外は何の音もせずに、静かに敷き詰められていた。夏衣はひとつ肩で息を吐いて、肌蹴たままだった着物の前を合わせて、もう一度座り直した。ちらりと目をやった卯月の顔には、何の感情も浮かんでいないように見えた。だとすればそれはどうともしがたいことである。夏衣は確かめるつもりで、無防備に放り出されていた卯月の手の甲にそっと指を這わせた。 「今のは聞かなかったことにしてあげる」 「・・・白鳥が死んだら」 「卯月」 「俺がお前を連れ出してやる、ここから」 微動にしなかった右手が不意に俊敏な動作で夏衣の手を掴んで、強引とも取れる方法で引き寄せられた。その瞳は言葉の強固さを無視するかのように、不安定に揺れ動いていた。卯月には出来ない。夏衣は口に出さずにそう言ったつもりだった。しかし卯月はそれを中々理解しようとしない。卯月だけではない、誰にもそんなことは出来ないのだと、そうしてそんなことは夏衣さえ望んでいないのだと、どうして分かろうとしないのか。見上げる視界で卯月が切羽詰ったような、それでいて決心を固めたような表情をしているのに、夏衣は試すつもりで薄く唇を開いて硬くしていた体から力を抜き、卯月のほうに枝垂れかかった。卯月は驚き、躊躇いながらもそれを抱き止める。見た目の線の細さとは関係なく、それは重たい体だった。ひとひとりというのは、それだけ重い存在なのだと、誰かが支えて立つことなどはじめから不可能なのだと、夏衣は暗にそうやって卯月の腕に訴えかけたつもりだった。 「白鳥が死んだら、だって?」 「・・・」 「そんな悠長なこと言わずに、今すぐここから連れて逃げてよ」 「・・・夏衣」 「ねえ、卯月。俺のこと好きなんでしょう」 お前には出来ない。何も出来ない。秘めた言葉で言いながら夏衣は、体を無条件に締め付ける卯月の腕に爪を立てた。何も出来ない、お前だって白鳥が怖いのだろう、臆病者、臆病者。そう罵りながら、夏衣は透明な涙を零し続ける卯月の腕に爪を立てた。 「ごめん」 そんな言葉が聞きたいんじゃない。

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