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邪魔物は消せ Ⅴ

「信じないのかよ、俺はこれでも医者なんだぜ」 目を伏せたまま夏衣はまだ、耳元で低音を響かせる卯月の腕の中に居た。もうすぐ白鳥は死ぬ。果たして本当にそうなのだろうか。整然とした爪が並ぶ卯月の左手が若干の震顫を伴ったまま、夏衣の頬をやんわりと撫でた。男はこうすることしか出来ない、想っていても夏衣が何もしなくても、唇を合わせることすら出来ないのだ。可哀想に、と同情と軽蔑を含んだ毒を呟きたい桜色のそれを結んで、夏衣はひとりで考えていた。白鳥は確かにもう随分な高齢であることは間違いない。実際幾つなのか夏衣は知らないし、多分知っている人間の方が少ないだろう事は想像がつく。しかし孫に当たる夏衣はもう25だ。そこから逆算したとしても、人間の寿命が近いことは簡単に窺い知れる。しかしそれとは関係なく、白鳥が死ぬなどということが、夏衣には如何しても理解出来なかった。人間全てに訪れるその最後の現象が、まさか白鳥には例外として神にでも愛されているなんて思っているわけではない。ただどうしてもどう考えても、そうは思えなかった。卯月の言うようにそれは全く信じ難いものだったし、そもそも白鳥が死ぬことを想像すらしたことがなかった。 「この間、白鳥に呼ばれて寝室に入った」 「・・・この間っていつ」 「確か9月。見れば分かる、アイツはもう長くないよ」 体を悪くした白鳥は暫く外出を控えていた、本当に卯月の言う通りなら、今回だって秋乃に任せて家で安静にしているべきだろう。それをなぜ出歩いているのか、これは白鳥の体調が良いことの表れではないのか。夏衣が体を固くしたのが分かったのか、卯月はそっと回していた腕の力を緩めた。覗き込んだ表情は歓喜とは程遠く、夏衣はなぜか卯月の想像もしなかったほど険しい顔をして俯いていた。卯月も他と同様に、白鳥を良く知っているからその存在が恐ろしかった。だからその寵愛を受ける夏衣に触れるのは躊躇われたし、白鳥から夏衣を引き離すことが出来ないのも良く分かっていた。だけどそれはあくまで白鳥が居るからの話だ、その存在が失われれば夏衣をここから連れ出す事だって簡単だ、簡単に決まっている。卯月はそれを信じている、盲目的とも思えるほど。夏衣だってそれを信じているのだと思っていた、だから惨い運命に自らの命を絶つことなく生きているのだろうと。 「・・・夏衣?」 「その話、まだ誰にもしてないだろうね」 「・・・あぁ、勿論」 「・・・―――」 するりと夏衣が立ち上がり、卯月の腕から逃れる。その伸びた背筋は一体何を背負っているつもりなのか、整然とした雰囲気を纏って、夏衣は元の座っていた座布団まで戻り、そこにおもむろに腰を据えた。分家だろうが何だろうが、卯月だって白鳥の人間である。当主の逝去の話題が、決してここで歓迎されないことくらい分かっている。それにしても夏衣の表情は固く重苦しく沈んだものだった。 「なら良いけど。万一口を滑らせでもしたら、幾ら俺でも庇ってあげられないよ、卯月」 「・・・分かってる、お前以外に言うつもりなんてない。お前にだけ知っておいて欲しかったんだよ」 そうして卯月が表情を和らげるのに、夏衣はまだその眼光を鋭くしたままだった。白鳥の死というものを素直に喜べない、そんなことを自分は望んだことが今までなかった、考えたことがなかった。そんなことでまさか、この重い呪縛から逃れることが出来るのだろうか、分からなかった。一方で混乱しながら、夏衣は思っていた。白鳥が死んだら、もしも白鳥にもその他大勢と同じように死という概念が纏わりつくのであれば、他に一体誰がこの家の中で自分を縛り付けるような権力を持っているのだろう。それは開放と同意義なのではないのか、その仮想に夏衣はますます困惑し、踊らされまいと冷静になろうと努めていた。皮肉なことに夏衣は何度もその空虚な夢や幻を広げて見せられたことがある。それに手放しに歓喜している間に、全てが偽者だったとその内気付くのだ。その時の喪失感を、一体誰が埋めてくれるのだろう。だから夏衣は中々信じられなかった、確からしい卯月の口調も微笑も、手を伸ばせば崩れる砂の城にしか見えなかった。 「・・・卯月」 それから暫く双方とも黙っていたが、卯月がいよいよ病院に呼び戻され、帰らねばならないとなった時に、夏衣はそう思い出したように呟いた。美しい瞳は外を向いており、卯月の方に注意はなかった。その横顔には先ほどまでの動揺も、蒸し返るような色香もなく、ただ寂寞ばかりが漂っているようにも思えた。辛かった、何も出来ない以上に何も言わない夏衣が、それ以上に辛い思いをしていることは知っているのに、それとは関係なくそれは目を覆って逃げ出したくなるほどの痛みを伴う光景だった。返事をした声が掠れて虚しく響く部屋の中、夏衣はすうっとその瞳をこちらに向けた。同情するような懇願するような、それでいて何の感情も含まれていないような、表面が薄く濡れた桃色は卯月を同様に捉えて惑わせ続けている。 「・・・忘れないでね、約束」 「約束・・・?」 「待ってるから、俺、待ってるからね」 「・・・―――」 「必ず迎えに来て」 殆ど音にはならないその言葉にただ目の奥ばかり熱くて、卯月はようやく片付けた医療器具を詰めた黒の鞄を取り落としていた。決して触れてはならないその人の細い肩を抱いて、夏衣が震えているのを嫌でも理解させられる。夏衣が本当は何を思っているのか、思っていたのか、卯月には分からない。分からなくても良かった、棒のような腕が首にするりと巻きついて、それが痛いほどぎゅっと締まった。瞬く内に夏衣が発する妖艶な匂いに当てられて、頭の神経がびりびりと痛む。簡単にそうやって欲情を撫でられる、意識的にやっているのか無意識なのか、卯月には確かめる術がない。考えよりも先に制御不能な指先が動いて、夏衣の白い喉を撫でた。ごくりとそこが動いて、夏衣の手のひらが卯月の手首を捕まえた。そのまま制止をかけられるのかと思ったが、夏衣は決して言葉にはせず、その美しい瞳を潤ませて卯月を黙って制した。 「・・・―――っ!」 欲しくて堪らないのに、欲しくて欲しくて堪らないのに、どうやっても何も手に入らない。居ない男に背筋を撫でられ、存在の残像に怯えている。それでもまだ冷静な部分で事の重大さを悟っている夏衣が、卯月に手を引くように促すように、ゆっくりと首を振った。左の手首をそんな力がどこにあるのか疑いたくなるほど強固に掴んだまま卯月は、夏衣が自分できっちりと元に戻した濃紺の着物の襟を引っ張った。そうして何も言わないまま、自身の下唇を赤すぎる舌でぺろりと舐める。驚愕した表情のまま、夏衣は未だ自由な右手で卯月の手首を掴んだ。ここから先は冗談では決して済まされない、ふたりとも良く分かっていた。 「・・・アイツは居ないんだぜ」 「でも駄目だ、駄目だよ。卯月、手を離すんだ」 「何で・・・そんなに白鳥が怖いのかって・・・言ったのはお前のほうだろう」 卯月の言葉通り、男はここに居ない。きっとこのまま誘われるまま事が済んでも、双方黙っていさえすれば、もしかしたら露見には至らないかもしれない。しかしどこでどう情報が回るか分からない。ここに男は居ずとも、本家に残る人間は全て白鳥の手先であることを、忘れるわけにはいかない。夏衣はもう一度卯月にはっきり分からせるために、ゆっくりと首を振った。卯月の眉間に寄っていた皺が深くなる。そこに欲しいものが無防備に転がっているのに、何も出来ない。卯月は自身を戒める意味も込めてきつく目を瞑って、夏衣の手をゆっくり解いた。すぐ側で夏衣が体を起こすのが分かった。 「・・・卯月」 「悪い、どうかしてた」 「ううん」 「・・・迎えに来るから、それまで、待ってて」 苦しそうに俯いたまま卯月が空虚に吐き出す言葉を、夏衣は自棄に冷静な面持ちで聞いていた。 「待ってるよ」 そして簡単に雰囲気にそぐわない甘い声で、それに答えるのだった。

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