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邪魔物は消せ Ⅵ

外はまだ卯月が本家にやって来た時と同じ勢いで、静寂に雨が降り続いていた。白鳥本家の敷地内にある駐車場には、いつも通り黒塗りの外車が多過ぎると思うほど整列していたが、それに見合うだけの人数はこの屋敷の中に特に今日は居ない。その中から自分の白い車を見つけると、卯月はそれに近寄り扉を開いた。予定ではもう少し早く切り上げるつもりだったが、夏衣の様子がおかしかったのもある、本人を目の前にして冷静で居られなかったのもある、卯月の携帯には病院から何度も帰宅を催促する電話がかかって来ていた。この分じゃ病院を任せてきた弟の機嫌も余り宜しくないだろう。しかし弟はいつも全てのことに対して面倒臭そうな顔をしているので、どこまでが本気かどうか判別し辛い。濡れる砂利道を踏んで歩きながらもう一度白鳥本家を仰ぎ見ると、ふいに夏衣の陰鬱とした様子が思い出されて、卯月は苛立ったまま濡れた手で頭をがしがしと掻いた。夏衣にでもない、きっと白鳥に対してでもない、夏衣の言った通り何にも出来ない自分に対しての苛立ちだった。 「・・・卯月先生」 その時、雨の音に混じって人の声が凛と響いて、卯月は素早く振り返った。この声は聞き覚えがある。卯月の視界の中には、唐突とも思える要領で紺色の傘を差した斉藤が、いつもの見慣れた人の良さそうな笑みを貼り付けて、使用人の正装を纏って青々とした芝の上に立っていた。斉藤の顔を見た瞬間、無意識に不味いと思ったが、卯月の中の動揺はすぐに冷静に切り替わる。しかし斉藤が本家に居たのは誤算だった。男は白鳥の世話係筆頭である。てっきり白鳥と一緒に会合に出向いたものと思っていた。いや、その卯月の予想は何も安直な考えから生み出されたものではない、本来ならば完全にそうなのだ。こめかみがずきずきと無意味に痛み出して、卯月に事の深刻さを告げる。男はまさか卯月を見送りにやって来たのではないだろう。 「・・・何か御用ですか」 「今からお帰りですか」 「えぇ・・・まぁ」 警戒心が剥き出しの卯月の質問を軽く聞き流した斉藤は、にこにこと表情を綻ばせたまま、砂利道の上を足音もなくこちらに近寄ってきた。仕方なく卯月はそれに溜め息でも吐きたい気持ちで、後ろ手を伸ばして開けっ放しにしていた車の扉を、音を立てて閉めた。斉藤は5メートルほど距離を取ったところに止まると、すっと持っていた傘を上げた。その意味深過ぎる表情には、毎度同様の嫌な予感しかしない。卯月は白鳥に褒められるその美しい桃色をきゅっと細くして、斉藤のほうにあからさまな訝しげな視線を送った。しかしその時の斉藤は、いつもの緩慢とした余裕はどこに消えてしまったのか、全くその存在が見当たらず、随分と事を急いているのか、後から考えても順序を完全に踏み越えた性急なものだった。 「余計なことをどうぞ吹き込まれませんよう、お願いしますよ」 薄い唇をきゅっと歪めて斉藤は笑ったまま、外見にそぐわない低い声でそう呟いた。やはり男は知っていたのだ、さぁっと血の引く音が耳元で聞こえて、血液の足りなくなった脳がふらふらと重たい。ずるりと持っていた傘の柄から手が離れて、砂利の上を転がっていった。勢いのない雨が屋根を失った卯月にも同様の冷たさで打ち付ける。斉藤はそれを見て自棄におやおやと悠長な声を出して、しゃがんでそれをひょいと片手で拾い上げた。卯月が引っ手繰るように傘を受け取ると、斉藤は濁った目をぎらりと光らせた。 「まぁ、先生は分家の方であられるし、このようなことは私から再度申し上げる必要などありませんよね」 「・・・そう言うお前はどうなんだよ」 ゆっくりと斉藤が顔を上げて間の抜けた声を上げた。いつから、どこから聞かれていたのか分からない。夏衣は人払いをしたと言っていた、だから普通では決して口に出せないことを、勿論その場の勢いもあっただろうけれど、卯月はあの時口にしたのだ。しかし斉藤はそれをどこからか聞いていた、本家嫡男の夏衣の命令を無視するとは全くいい度胸と根性をしている。かといって、夏衣は男に制裁を加えることはないだろう。男は夏衣の権力の及ばないところに居る。奥歯を噛むとぎちりと鈍い音がして、不協和音を卯月の頭蓋骨に響かせた。 「お前、俺に命令できる立場なのかよ」 「・・・と、申されますと」 「斉藤だ?聞いたことねぇ家柄じゃねぇか。俺は分家で色持ちだぞ、口の利き方に気をつけろ」 「・・・先生」 それが卯月の弱みでもあり、強みでもある。分家に色持ちが生まれたことを、親戚は羨みながら疎ましがった。両親は何も言わなかったが、言わないことで卯月を厄介に思っていたことぐらい、重々承知である。ひとつ下の弟は何にも興味の無さそうな茶色い眼をして、時折口の先だけで悔やみの言葉を垂れ流した。ただ当主は時折卯月を自分の寝室に招きいれ、夏衣を鳴かせているのと同じ手で卯月の頬を撫でて目の色を褒めた。いっそ男が自分に欲情しないものかと考えたが、白鳥はそれ以上何もすることはなく、卯月の方からアクションを起こすのは余りにもリスクが有り過ぎた。卯月は閉まる障子に頭を下げて、何も出来ないことをそうして毎回悟った。斉藤は当主の寝室には入ることを許されておらず、いつも二つ前の部屋できっちりとした正装を乱すことなく正座していた。つまり男の地位はここまでなのだと、卯月は知っている。 「それ以上はどうか、お控えなさってください。先生の体裁に関わります」 「それで脅しているつもりか、やり方を間違うなよ。当主様が俺とお前のどっちを目にかけているかぐらい知ってんだろ」 「・・・私は当主様の世話係筆頭です」 引き攣るような斉藤の声を、卯月は鼻の先だけで笑い飛ばした。びくりと斉藤の無防備な肩が大きく震える。 「だから何だよ。今回のことが良い例だ。本当に重役人なら当主様が出席なさる会合だ、当然連れて行くだろう」 「・・・何が仰りたいのですか」 「それがお前はここで留守番だ、それは当主様にとっちゃ、お前なんかどうでも良い存在だってことだよ」 「・・・―――」 「どうやら、媚びる相手を間違えたようだな」 青くなった表情をさっと紺色の傘で隠して、それが微弱にまだ震えているのを卯月は知りながらも、用の無くなった斉藤に背中を向けて卯月は再度車の扉を開いた。スラックスのポケットに入れていた携帯がまた震えだして、着信を静かに卯月に告げる。

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