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邪魔物は消せ Ⅶ
鮫島が頭を下げている。夏衣はそれを見ながらひとつ大きく息を吐いた。閉まっている障子の向こうは、降り続く細い雨で濡れている。ややあって鮫島が頭を上げて、夏衣はふいとそちらに視線をやった。美しい桃色が暗がりにその証明をこちらに訴えかけてくる。鮫島はそこから目を反らしたいような、反らしてはいけないような、妙な気分で見つめられている全身に浮き出た鳥肌を知らぬふりをした。男は自分のその能力というものに酷く疎いのか、もしくは疎い振りをしているのか、分かったものではない。
「・・・そう。そりゃ随分厄介だ」
煙草を噛んだままの夏衣の唇が、薄く長く煙を吐き出しながらそう言う。襖でも障子でもどちらでも良いから、開けて換気をしないと時期ここは煙の毒で満たされるだろう。夏衣はそれを待っているのかもしれない。男の軽く柔らかい声に目を伏せて聞きながら、嗅覚で煙草の匂いだけ感知する。夏衣が本家で煙草を吸っているのは、酷く珍しかった。そもそも夏衣が本家で当主の寝室外に居ることも珍しかったのだが。だから勿論鮫島もそこではじめて見た。誰に買いに行かせたのか分からないが、卯月の様子を見て来いと言われて、車が去っていくのを確認して帰ってくると、夏衣の側にそれは元々あったかのような顔をして鎮座していた。黒い細身の煙草を白い指で挟んで、夏衣は灰色の煙を湿度の高い部屋の中、優雅に吐き出し続ける。顔をこれ以上上げてはいけないような威圧感と、引っ張り上げられるような誘惑の隙間に居る。
「全く卯月もムキになっちゃって、斉藤くんのことなんか放っとけば良いのに、ホント可愛いんだから」
「・・・どう、されますか」
優しく怪しく笑いながら夏衣は、心内では全くそうは思っていないような口調で卯月を揶揄した。それにしても卯月が可愛いと言う夏の真意は計り知れないが、声ばかり乾いたように高く、それが偽者のようにしか見えずに鮫島は静かに困惑していた。男はもう成人を軽く過ぎているし、何もかもを分かり切って割り切ったひとりの大人のように見えたが、それが時折揺らいだように、純真無垢過ぎる子どもに戻る。夏衣が煙を吐き出しながら、小首を傾げたような動作を見せて、慌てて鮫島はいつの間にかぼんやりしていた思考を戻してもう一度目を伏せた。毒なのは煙のほうではないことを、そうしてゆっくりと悟らされる。
「放っとくよ、卯月の言っていることが本当なら尚更」
「・・・承知致しました」
「今はまだ泳がせておこう」
気だるいような空気の中、決して子どもではないのにその時は何故か、何も知らないような何も知らされていないような、学童期の雰囲気を纏って夏衣は口から煙を吐き出した。開けた口の中が随分と赤い、男は白鳥なのだとそうして思わされる。はっきりと口にした夏衣の本意など分からず、その時鮫島はそれに黙っていることしか出来なかった。本気かどうかなど、聞かずとも分かることだった。
「自分のことを色持ちだって思ってるなんて馬鹿みたいだと思わないか」
くつくつと夏衣は肩を揺らしてひどくおかしそうに笑って、鮫島にそうやって同意を求めてきた。鮫島は先程確かに卯月の肩に垂れかかって甘い言葉を吐いていた夏衣と、そこでもうただの白鳥の顔をして笑う夏衣が同一人物に思えなくて、それになんと返事をすればいいのか分からなかった。
「ただの突然変異の癖に本家の人間と同じだと思ってるなんて」
「これだから分家は嫌いだ。本家の人間とは全く違うのに、白鳥と同じ名前だからって偉そうにしてる」
「そういう節操がないから卯月は分家でも弾かれているんだ。そうだろう」
言いながら夏衣はまた肩を揺らして、それと同じくして夏衣の指に挟まれた細い煙草の煙がゆらゆらと揺れて、雨を孕んだ重たい空気を押し退けて上に上がっていった。卯月は分家の中でも力のある『月家』の長男であったが、突然変異の色素異常を持っているせいで、月家の中では「本家と同じ血だ」と重宝がる人間もいれば、「分家の癖に本家と同じ色を持つなんて汚らわしい」と煙たがる人間もいるらしく、色々複雑な立場らしい。どちらかといえば、本家の人間の方が、現白鳥当主なんかは特に、自分の寝室に招き入れるほど、本家の人間と同じ桃色の光彩を寵愛しているようで、それがきっと分家の上の人間が、卯月のことを気に入らないでいる要因のひとつかもしれないが。当の本人はあまり白鳥に執着していないせいなのか、噂などどうでもいいと思えるほど、医者というアイデンティティーひとつで、あんなにも自己肯定感の高い人間だったから、余計にそう見えたのかもしれない。
「自分だって大事な会合に連れて行ってもらえてない、嫡男の癖に」
「俺と同じじゃないか」
言いながら笑った夏衣の顔が半分、泣いているように見えたのは、鮫島の気のせいだったのかもしれない。夏衣の言葉はきっと本心だったけれど、卯月の体にもたれ掛かって、「助けて」と呟いた夏衣だってきっと本心だったはずだった。夏衣は白鳥でいなければならないのと同じ尺度で、ただの「夏衣」でもあったから。それとも鮫島が夏衣にそう思ってほしいだけだったのかもしれない。そうでもしないと、夏衣が救われる方法がどこにもなかったから、それが痛ましくて。
「どう、されますか」
「放っておこう。しばらく」
「・・・承知致しました」
「消すのはもっと後でも良いでしょ」
夏衣の目は決して曇ることはない。
その後、二週間もすれば会合は終わり、予定通りに白鳥は帰って来た。それと同時に夏衣はホテルに戻り、結局当主の顔を見て挨拶を交わした程度の里帰りだった。当主の顔色はいまひとつ良くなかったがそれは毎度のことで、会合の疲れもあったのだろう。それを加味するとむしろ体調は良さそうにも思えた。卯月の言っていることが本当なのかどうか、勿論気にならなかったわけではない。しかし卯月と思いのベクトルが違うことは良く分かった。自分は思っているのだ、白鳥には死んで欲しくないと、死なれでもしたら困るのだと。どうしてなのか分からない。本当は辱められ続けた自分は卯月の思うように、白鳥の死を願うべきなのかもしれない。だけど全くそんなことは考えたことがなかったし、想像もしたことがなかった。おかしいのだと気付くのに、そして10年はかかっている。何の刷り込みなのか、分からないと思いながら帰りの新幹線の窓から流れる景色をぼんやりと見送っていた。一体自分というものはこの先どうなるのか、どうなるのがベストだと思っているのか、そんなことを一度でも考えたことがなかったことに、夏衣はただ淡々と静かに愕然としていた。
(白鳥が死んだら俺は自由になる?)
(そんな馬鹿な、そんな簡単なことじゃないんだよ、卯月)
ぐっと奥歯を噛むと、血の味がした。分家である卯月にはもしかしたら分からないのかもしれないし、そうやって幻想でも見ている方が、まだマシなのかもしれない。そうしないと今をちゃんと生きていけないと周囲に思われているくらいには。
(俺は死ぬまで白鳥だ)
(きっと誰も、それ以外になることを、許してはくれない)
そんなことは分かっていた。タクシーから降りた夏衣は、スーツケースを持って、ホテルのエントランスから、その白い洋館を見上げた。こんなところでやり直した、白鳥以外の人生に、意味なんてないことなんて分かっている。そんなことは夏衣が一番よく分かっている。卯月がいくら手を引いてくれても、あの部屋からそれで逃れることができたとしても、どこでどんな風に生きたって、それは多分夏衣と白鳥を線引きするには至らない。それでも夏衣が唯一幻想を見ることができるのだとしたら、このホテルの中しかないことを、夏衣はよく分かっているつもりだった。
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