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正しさに罪はない
最後の白鍵を叩く、ポーンと店内に音が響いて消えていく。今日も黒いグランドピアノはぴかぴかに磨き上げられている。京義がここで働くようになってから暫く経つが、最近はどうもピアノが随分綺麗である。以前は早めに出勤してひとりでピアノを掃除していた。ここのピアノを触るのは自分だけなのだと、店長の話からも知っている。京義は一度立ち上がり控え目に一礼すると、重たい椅子を引いて再度そこに座った。するとぱらぱらと聞こえていた拍手の数が徐々に減り、あたりは無音に包まれ、京義は背中に無数の視線を感じる。昔コンサートホールでひとりピアノを弾くのは、一体どんな気分のするものなのだろうと考えていた。もう何千何万ともなると、ひとりひとりの視線というものをこうしては感じられないのだろう。スポットライトが眩しくて、客の顔など見えないのだろう。それが良いことなのか、悪いことなのか、京義には分からない。経験がないと比較も出来ない。そっと指を鍵盤の上に並べる。京義は短く息を吸った。
「お疲れさーん」
「・・・あ、どうも」
スタッフルームの扉を押しやって、その時間帯にはシフトの関係なのか、兎角一緒になりやすい片瀬が顔を出した。何気なく見ればその右手には『ワルツ』の箱が握られている。きっとそれは京義への差し入れだろう。京義は演奏が終わるとそそくさと店の奥に引っ込んでしまう。それゆえにいつも差し入れを任されるのは、店長及び店に残るスタッフだった。片瀬を筆頭とするミモザのスタッフはそれに嫌な顔ひとつせず、文句のひとつも言わず、律儀に京義のところに持って来てくれる。片瀬はいつもの馴れ馴れしさで京義の隣の椅子を勝手に引くと、そこに腰を据えてその茶色い箱を開き始めた。中から出てきたのはロールケーキだった。既に輪切りにされているそれの一切れを掴むと、片瀬はそのままそれを口に入れた。そうして思い出したようにそれを咀嚼しながら、箱を京義に押しやった。中はクリームとフルーツのようである。見ているだけで幸せな気分になれそうだが、流石に育ち盛りの今の時期、見ているだけで満足というまでには至らない。出来ればフォークと皿が欲しかったが、仕方なく京義はそれを掴むと片瀬と同じようにそのまま口に放り込んだ。
「・・・うま、ここのロールケーキ、マジ美味いよなぁ・・・」
「・・・はい」
完全に食べ終わったのに片瀬は仕事に戻る気配なく、そのままテーブルに肘を突いた。この分では片瀬も休憩に時間なのかもしれない。深夜は客が少ないせいもあってか、店長ひとりでも充分回せるらしかった。京義は片瀬の独り言とも思えるそれに、いつものように曖昧に頷く。確かに片瀬の言うように、『ワルツ』のロールケーキは美味であった。しかし片瀬は半分以上残っている箱の中のケーキには目もくれずに、隣で何をするわけでもなくただぼんやりとしている。もうひとつ食べたいところだが、片瀬の手前食べても良いものなのかどうなのか、京義は迷って手をつけられないでいた。
「京義、甘いもの好きなんだって?」
「・・・はい」
「へー・・・なんか意外だなぁ、お前そういうの全然駄目って感じ凄ェすんのに」
「・・・そうですか?」
そんな風に思われているなんて一度も考えたことがなかった。大体ひとからどう思われているかなんてことに、気を配ったことなどないのだ。そんなことは徒労だと京義はただ考えている。しかしそれが自分のしたいようにすることを容認している口実に過ぎないことも、良く分かっている。もしかしたらただの虚勢かもしれないし、我侭かもしれない。自分のしたいようにするほうがずっと良いように思う。だから京義は髪の色を元に戻すつもりはないし、面倒臭い会話に付き合う気もない。ただそれだけのことだった。
「でもそういうところが良いのかもなぁ、ギャップって奴?」
「・・・ギャップ・・・」
「いかにも、なお前が甘いもん食ってるとさ、やっぱちょっと可愛いもんな」
「・・・はぁ・・・」
頬を突かれて、京義は夏衣を思い出しながら曖昧にそれに返事をする。その仕草はどこか荒っぽいところを除けば、ホテルでの夏衣を想起させた。しかし片瀬のほうは京義の煮え切らなさを特に指摘するわけでもなく、気にするわけでもなく、やはりにやにやとひとり楽しそうにしているだけだった。
「やー、大丈夫だって京義。俺は別にそんなんじゃねーし、安心しろって!」
「・・・?」
曖昧に京義が頷くと片瀬はそれに含み笑いを漏らしながら、京義の肩をばしばしと全く思いやりのない形で叩いた。片瀬が一体何を否定しているのか、京義は分からずそれには首を傾げる。ただ社会は自分のしたいようにしていれば良いだけの場所ではないことを、最近は妙に痛感している。これが大人になることなのかもしれない。どんどん生き難くなることが、しかしそこで何とか生きていかなければならないことが。本来ならば片瀬の興味のない話など聞いていないふりでもすれば済むことであったし、片瀬にどう思われようと好きなだけケーキを食べても良かった。そういうことをひとつひとつ、出来なくなっているのか、出来るようになっているのか、どちらにしても同じことのように京義には思えた。
「なぁ、今日ピアノ綺麗だっただろ」
兎に角片瀬は何か楽しいことを日々追い求めている瞳をベースにして、ころころと表情が変わり、それと同じくらいの尺度でその口から吐き出される言葉も統一性を欠いていた。きっと沈黙には耐えられないタイプなのだろうと、冷静に観察する頭はそれよりも遥かに糖度を欲していた。面倒臭いがそれに無視を決め込むわけにもいかずに、京義は目の前の箱に視線をやったままそれに答える。
「・・・はい」
「誰が掃除したんだと思う、誰かが掃除しなきゃ綺麗にならないだろ」
「・・・片瀬さんですか」
いつも随分無愛想に聞こえるそれに、片瀬は眉を顰めたりしない。ただ不器用が過ぎるその姿に、時々可哀想だと思うほどだった。この分じゃきっと周りからの妙な誤解は絶えないだろう。片瀬から見れば子どもの京義は意図的なのか、らしからぬ雰囲気を纏っている。しかしこの間店長から不意に聞かされた16という年齢と、それは見事に適合していると思うのだった。俯き視線を変わらずケーキにやっている白髪の頭に、黙って手のひらを沿わせてみる。その下で自棄にゆっくりと京義が動くのが分かった。
「あぁ、俺?俺そんな尽くすタイプに見えちゃう?」
「・・・」
茶化して笑っても、京義はその無表情を崩したりしないのが常だった。しかし片瀬はそんなことを特に気に止めずに、もう一度京義の頭をぽんぽんと叩くように撫でると、ただ黙ってにこりと笑った。
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