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自惚れるな、若者よ Ⅰ

本日の授業は2限からだった。染はベージュの階段の下で、前を行き交う生徒達と目が合わないように目深に帽子を被り、更に俯いて立っていた。いきなりゼミからはじまる水曜日は、染の憂鬱の尤も高まる曜日で、染が外に出たくないと駄々を捏ねる確率がそれに比例していく日でもあった。しかし今日は一禾の剣幕に屈服し、こうして教室の下の廊下でぼんやりと立っている。まさかひとりでゼミを取ることも出来ないので、キヨと同じ教授のものを選択していたのだったが、教室にひとりでは行って待っているという選択を出来ない染は、キヨをこうしてここで待っているのが常であった。それをキヨは良く知っているので、いつも早めにやって来て、むしろキヨのほうが待っている確率が高いのだったが、今日はどうしたことなのか、ここで幾ら待っていてもキヨの姿は一向に現れず、時計は後5分で開始時刻を焦っている染に無常にも告げる。染は焦燥したままポケットに突っ込んだ携帯を取り出し、少ないナンバーの中からキヨのものを辿って、電話をかけようとしたが、その時丁度着信があり、染の手の中で携帯が震え出した。そのことになぜか畏怖しながらも、ディスプレイが表示したのがそのキヨの名前だったので、染は何だか嫌な予感がすっと通り過ぎるのを知らないふりをした。 「もしもし、キヨ!」 『あー・・・ごめん』 案の定、電波の向こうでキヨはいつもより随分と低い声で、ほとんど叫ぶように名前を呼んだ染に対して、いきなりそう呼応した。それに反応するかのように、染の背中にすっと冷たいものが流れる。それを気にしないようにして、いつの間にか汗でべたべたになっている手でしっかりと携帯を掴み直すと、階段の柱の後ろにささっと体を隠した。良くないことではありませんように、と染は祈るように思うが、キヨはまさかそんな染の様子を気遣うことが出来るほど、人間が出来ていない。 「・・・ご、ごめんって・・・」 『何か昨日から熱出しちゃってさー・・・まだ下がらないんだよなー・・・』 「えぇ、熱・・・?ってことは風邪・・・」 『多分、っつーわけだから、今日俺休むけどさ・・・』 もっと早く連絡をしてくれれば、それを口実に学校を休めたのに、と染は悔しく思ったが、一禾がそんなことで納得しないということを染は突然のことに失念してしまっている。そして大事な友達が熱で寝込んでいるというのに、全くそれを気遣う様子というのがまず、染には見られないことも問題ではある。しかしそんなことはキヨのほうも勿論察知出来ずに、電話越しだからという理由もあるのかもしれないが、いつもより元気のなさそうなしゃがれた声で、どこかぼそぼそと病状と欠席の旨を染に告げた。それを聞きながら曖昧に返事をしながら、染はキヨの風邪を心配するどころか、風邪で休めるなんて羨ましい、そんなことなら俺にうつしてくれれば良かったのに、と下唇を噛みながら薄情にも思っていた。 「・・・うん、分かった」 『今日ゼミだったよな・・・お前俺居なくても大丈夫か・・・』 しかしキヨは染が眉尻を下げて、まさかそんなことを考えているとは思わない。どこか声のトーンを落とした染を気遣うように、どこか息漏れの多い声でそう尋ねるが、染はそれに多分家で寝ているだろうキヨには勿論見えていないのだが、その場で大いに首を振った。 「大丈夫、今日もうこのまま帰るから」 『・・・は・・・?』 次に聞こえた声は自棄に嬉々としており、キヨは思わず自分の耳と携帯の能力を疑った。しかし次に続く言葉を考えれば、それも合点がいく。つまり染はキヨが学校を休むことを良いことに、自分は何とも無いくせにそのままサボろうとしているのである。こんなことがもし一禾に露見しようものなら、きっとこっ酷く叱られるに決まっている。それが染本人のみだったら大いに結構、自分の立場をそうして再認識すれば良いことだ。しかし多分あの男は、考えながら怖気が走ってキヨはベッドの中思わず丸くなった、あの男は自分も込みで流暢に嫌味を言って見せるつもりだろう。体調管理がなっていないとか、そんな医者みたいなことをつらつらと病み上がりの体で聞きたくはない。ということはどう考えても、染には授業に出て貰わなければならないのだ。キヨは震える体で決心を固め、自棄に元気になっている染を窘めるために携帯を握り直した。 『お前、出席日数・・・大丈夫かよ』 「え、大丈夫だよ。ええと、4回休めるんだから」 『やばいって、この間も来てなかったじゃん、行けよ。ゼミなんか落したら大変だぞ・・・』 「やだよ、怖いし。それにキヨだってそんなの一緒くらいじゃん」 『俺は後で欠席の手続き取れば、大丈夫だし。ホラ、病欠って医者になんか証明書貰ったら何とかなるって・・・』 「大丈夫だって、落したらまた来年一緒に取れば良いじゃん」 良くない、キヨはぼうっとする頭で考えた。そして染の大丈夫には、全くの根拠が見当たらない。それなのに何をそんなに明るく言っちゃってくれているのか、全く理解がつかない。キヨは電話口で溜め息を吐いた、こうなると如何なるか分かったものではないが、あの男に力を借りるしかない。 『・・・分かった・・・行かなかったら・・・一禾に言うからな・・・』 「・・・え」 『あぁ、今から電話、しよう。そうしよう、なーんか俺元気になってきちゃったなぁ』 「ちょ、ま・・・キヨ・・・!」 縋るような染の声が電波の奥から聞こえて、何と効果覿面なのだと思わずにやりとするが、このやり取りのせいで体は元気になるどころか、どんどん頭が重くなっていくばかりだった。本当に一禾に連絡を入れても良いところだが、学部が違うので正確には分からないが、一禾にも一禾で講義やら何やらとこの時間帯は用事があるに違いない。兎も角、染のほうはこれで方がついたと思って良いだろう。ちゃんと出席してくれよと祈るように思いながら、キヨは慌てた様子の染をそのままにして電話を切った。 「・・・切れた・・・」 キヨのそんな謀の最中に居るとはとても思っていない染は、通話を終えて突然黙り込んだ手元の黒い携帯をぼんやりと眺めていた。キヨが本当に一禾に電話をしていたら、また一禾は怒り出すに決まっている。そして今度は一体どんな無理難題を押し付けてくるか、想像するだけでも背筋が寒い。ただし一禾が時折染に交換条件として差し出すそれは、他の人間にとっては何ら問題ないことが多いわけで、無理だと思っているのは染くらいなものだろうことは想像がつくが、染にとってはその他大勢の意見など、この際関係無いのである。兎も角その時そこで、染は途方に暮れて立っていた。キヨは来ないくせに、自分には出席しろと強い口調で促す。勿論染は風邪でも何でもないわけだから、キヨのそれは正当な言い分だったのだが、どう考えても染には不当のことにしか思えず、唇を尖らせたくもなる。焦燥した気分が拭え切れないまま、染はちらりと時計を見やった。そこにはいつか一禾が気前良くくれたフランクミュラーが巻きついている。今まではそれを見るたび幸福な気持ちになっていたのだったが、今日ばかりはそれすら染を助けてはくれなかった。もうはじまっている時間帯だったが、教授陣は何かとのんびりしており、今から行ってもきっと間に合うだろうことは窺い知れる。 引き攣った頬のまま染が仕方なく柱の影から這い出し、2階に向かおうと足を向けたその時、きゃははと甲高い女の子の笑い声が響いて、染は慌てて柱の影に逆戻りをしてそこに縮こまっていた。女の子達はどう見ても奇怪すぎる染には目もくれずに、そのまま軽快な足取りで2階に上がっていった。顔など直視したことがないから、個別の認識は付かないが、この時間この棟に居るということはきっと彼女達もゼミを控えているのだろう。染のゼミにも少数だったが女の子が居たはずだった。それを思い出すと体中が突然の寒気に襲われて、染はゾッとして居ても立ってもいられずに、柱の影を飛び出した。一禾に露見して後で怒られるかもしれないことを、そうしてすっぱり忘れたまま、ふらふらと覚束無い足取りで講堂から遠ざかろうとする。すると目の前の自動扉が開いて、染の前を人影がすっと通った。ほっとしたのはそれが男子学生だったからで、もし女の子が飛び出していようものなら、染は所構わず大声を上げていただろう。危ない、今はひとりだったと染は反省の意味も込めて、余り意味はないのかもしれないが、声を上げるかもしれない口を大袈裟に両手で押さえ込んだ。その格好が如何に奇妙かということに、染は特別興味がない。兎に角ここを離れることしか、その時頭になかったのだった。 「あれ、黒川?」 そんな時、ふと背中から声が聞こえて、染はその格好のままゆっくりと振り返った。

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