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自惚れるな、若者よ Ⅱ
振り返った染の視界に、先ほど擦れ違った男子学生がどこか嬉しそうに立っていた。
「あ、やっぱり黒川」
「・・・あ」
急いでいる風だったが、男はなぜか染の名前を呼んで、やはりどう見ても嬉々としか思えない表情のまま、こちらに近づいてきた。染は口を覆っていた手を慌てて後ろに隠して、何だか良く分からないまま、何となくずるずると後退して男とは距離を取った。見知らぬ顔だったが一体どこで知り合うことになったのか、大体大学で声をかけてくるのは、考えるのもおぞましいが、染の場合女の子と相場が決まっている。男はなぜか染と一定以上の距離を取ろうとし、時折酷い嫉視を浴びることもあり、染はどちらにしても良い印象を持っていなかった。自分が知らないでも向こうは何故か染のことを良く知っていることは、これまでにも何度もあったが、それが一体何故なのかは今のところ染には分からない。しかしこの気さくさは一禾の知り合いか、そうでなければキヨの友達か、どちらにしても思い出せずに曖昧な返事が口から勝手に漏れて零れる。
「なに、今日ゼミ休みなの?急いで来ちゃったよ。遅刻したかと思った・・・」
「・・・え」
「何だ、掲示板ちゃんと見とけば良かったなぁ」
そう言うと男は染に向かって、自棄に爽やかに微笑んだ。しかし染は一向に目の前の男と知っている人の名前が一致せずに、混乱し続けていた。その上で男が一体何を言わんとしているのか、理解するのは最早困難にも思える。そこで男のほうが早く、染の異変に気が付いた。どう見ても心ここに有らずといった雰囲気で、返事はしているがしているだけで、完全に頭のほうは別のことを考えている。それは染の表面に分かり易く形となって現れていた。染も些か日本人にしては大き過ぎるほど長身ではあったが、男はそれを更に上回る身長で、多分一禾と同じくらいなのだろう、それに日々俯き体を縮こまらせている染は、実際の数字よりも小さく見えて、男は少し下から覗き込むようにして、曖昧に言葉を漏らす染の様子を伺った。
「・・・黒川?」
「ひぃ!」
突然のことに染は我に返ったのか、出さまいと思っていた奇声を発して、壁際までずずっと足を無意識のままに後退させた。体をぺったりと壁につけて、余談であるが染はこうしていると幾分か気持ちが落ち着くのであった、引き攣る顔のまま男の様子を伺う。男は自動扉の前でぽかんとして染のことを見遣っており、当然だがそれは多分奇声を発した染のことを訝しがっている顔なのだろうが、暫く何も言わなかった。2限目は滞りなくはじまったのか、廊下にはふたりの姿しかなく、生徒も間を過ぎらなければ、教授の姿も見られなかった。男は染のそんな様子を見て、暫く目をぱちぱちとさせていたが、噴出すと突然体をふたつに折り、笑い出した。今度はそれに染が吃驚し、強張っていた顔を更に引き攣らせることになる。
「・・・はは・・・あ、いや・・・ごめ」
「・・・あ、の・・・」
「いや、だって・・・だって、黒川・・・はは・・・何それ・・・!」
「・・・」
「だって・・・はは・・・!」
指を指されて笑われ始めて数分、ようやく染は男が自分の奇行を笑っているのだということに気が付き、羞恥で顔を真っ赤に染めたまま、その壁伝いにずるずると沈み込むとそこに膝を立てて座り顔を埋めた。だから声を上げないようにと、口を押えていたはずだったのに、いつの間に外してしまったのだろう。染は後悔の嵐の中、そんな風に考えていたが、口を両手で押えている様子だって、充分指を指されるに価する格好であるが、染はそういう時いつもそこまで気が回らないのであった。兎に角何でも良いからひとりにして欲しいと疲弊した体と心のまま、染はどんどん自分の周りの殻を厚くする。先ほどまで完全にキヨと一禾に背中を押された結果であるが、兎も角ゼミに出席するだけしてみようと思っていた頃とは、比べ物にならない縮小の仕方である。しかし染の感情は常に安定しているものではなく、ほんの少しの衝撃で簡単に針が振れてしまうものだったので、こんなことは染を良く知る人間から言わせて見せれば日常茶飯だった。
そこに座り込み唐突に大人しくしてしまった染に気付くと、流石に悪いと思ったのか、男はゆっくり近付いてきて、染の肩口をつんつんと指で突いた。兎に角放って置いて欲しい染は、それに何のリアクションも起こさない。俯いたその目尻には、男には見えなかったが、涙さえ浮き出ていた。反応が無いと困った男は、染の目の前に自分もしゃがみ込み、視線を兎に角合わせようとした。しかし真っ赤になっている染はそれも恥ずかしく、頑なに顔を上げようとはしなかった。このままどうでも良いからどこかに行ってくれと願うように思った染だったが、男は近距離で溜め息を吐いたものの、そこから動こうとはしなかった。
「ねぇ、黒川。ごめん」
「あのさ、俺のこと分かんないでしょ、喋ったことあんまりないもんね」
「でも俺これでも、黒川と一緒のゼミなんだよ」
そうだったか、それで男は名前を知っていたのか、考えながら染は顔をゆっくり上げた。男は思ったよりも近くに座っており、上から染のことを見下ろしていた。そして染の滲んだ視界の中でひとの良さそうな笑みを浮かべると、ついと染の頬に滑る涙を払った。
「やっぱ黒川、噂通りだね」
「・・・うわさ・・・」
「うん、女には苦労しなさそうな超美人、でも女には全く興味無しの変人」
「・・・へんじん・・・」
「あ、別に悪く言っているわけじゃないから、誤解しないで」
再度俯こうとする染の腕を掴んで、男が引っ張り立たせようとする。なぜ男が自分にこんなにも構ってくるのか、染は理解出来ないまま、しかしそれに目に見えた抵抗をすることも出来ずに、ずるずると引っ張り上げられる。染がいつもの癖で濡れた顔を擦ろうとするのを、男がその手首を掴んで止める。どうしようもなくなった涙は染の肌をやんわり刺激しながら、ゆっくりと落ちていった。
「・・・あんまり擦らないほうが良いよ」
「・・・」
「って、泣かせてるの、俺だよね。ごめん、別にそんな意味じゃなかったんだけど・・・気分悪かったよね、ホントごめん」
「・・・別に・・・」
「いや、でも俺ね、黒川にはずっと興味あったの。喋れるチャンスだと思って突然声かけちゃってごめん、驚びっくりした?」
「・・・―――」
男は染の手を両方とも優しく握りこみながら、下から見上げるようにして染の顔色を伺った。そんなことは一禾にもされたことがないのに、一体自分は初対面の男相手に何をやっているのだと、また突然のことに耳まで赤くなって俯く染の視線に気付き、男はあ、と声を漏らしながら染の手をぱっと離した。
「ごめん」
「・・・別に・・・大丈夫・・・」
「あー・・・何だろ、やっている俺が言うのもなんだけど、黒川もさ、あんまりそういう可愛い反応するのどうかと思うよ」
「・・・」
「嫌なら、嫌って言って。ごめん、無神経なことして」
「・・・べ、別に嫌じゃない・・・し」
罰が悪そうに彷徨う男の視線が、ふいっと染のところに戻って、体温が上がる。
「・・・だから、それ・・・」
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