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自惚れるな、若者よ Ⅲ
染が首を傾げるのに、男はまぁ良いやと自己完結して、ワザとらしくひとつ咳払いをした。
「俺、鳴瀬 新 ね、宜しく、黒川」
「・・・あ、どうも」
手を出されたのに、反射的にそれを握ろうとして自分のほうからも手を出して、しかしそれに触れる前に止まった染のてのひらを、鳴瀬は躊躇いのない動作できゅっと掴んで、ぶんぶんと2回上下に振ると満足そうに笑って、そっと手を離した。染は思わずその手のひらに視線を落とした。相変わらず頬は上気していたが、それは羞恥からくるものではなくなっている。もしかして鳴瀬は自分と友達になってくれるのではないだろうか、そんな淡い期待に瞬く内に満たされる胸の内、しかしそれを鳴瀬自身に問うてみるのは、随分な勇気が要った。もう染が顔を上げる頃には、鳴瀬の視線は自動扉の奥に何となく投げかけられており、それに態々声をかけて、こちらに注意を向けるそれだけのことが、憚られて染は鳴瀬の横顔をじっと眺めていた。黒い髪がかかる顔は温和で上品な男前で、その割に口調は砕けており、笑うと優しい時の一禾みたいに見える。鳴瀬は染のことを女には苦労してなさそうと言ったけれど、鳴瀬だってこの容貌ではきっと多数の声がかかるに違いない。じゃぁ余り自分が近くにいないほうが良いかもしれないと、染は自分の想像にまで無残にも打ちのめされて、再度視線を落すと尖った靴の先ばかり気にしていた。友達が沢山出来れば良いと思っていた、そんなことを昔はひとつも思わなかったけれど、だからこれは諦めで、尚且つ成長の影響だ。いつか自分の側から大切な人が居なくなっても、その時そんなことに気付かないくらい友達が沢山居れば如何だろう。それは穏やかな悲しみとしてしか、自分の心に残らないだろう。それに喚いたり叫んだり、そうしてしない選択を染はそうやって模索し続けている。予行演習のように、いつ来るとも知れないそれに怯えながらも、その日をそう振舞うことによって待ち続けているのだ。
「・・・黒川?」
唐突に鼓膜が鳴瀬の声を捉えて、染ははっとして顔を上げた。やはり思ったより近距離で鳴瀬はこちらを見ている。そのどうしたの、というあからさまに心配を孕んだ視線に、染は分かり易く首を振って答えた。そうと鳴瀬はそれに殆ど声を出さずに頷くと、だらりと完全に力を失っていた染の右手首を鳴瀬は何の前触れも見せずに、急に掴んだ。そうしてやや引っ張るようにして、染を自動扉の外に連れ出そうとする。染はそれによたよたとついていくので精一杯だった。そういう観点から考えると、鳴瀬は穏やかな雰囲気や口調の割に、随分と行動が急速な男のような気がした。振り返った鳴瀬の視線に捉えられて、途端染は萎縮してその場に固まってしまう。掴まれた手は異様な熱を放っており、それが鳴瀬に伝わらなければ良いのに、と考える頭。
「いや、ここで話していても何でしょ。どこか落ち着けるところ行こうよ」
「・・・な、鳴瀬・・・さん」
「・・・いや、さんは可笑しくないかな。黒川俺と同い年だよね、呼び捨てで良いよ」
「あ、じゃ。えと、鳴瀬・・・」
「うん、なに?」
それに爽やかな笑顔で答えられて、染はどうして良いのか分からずに、握られた手に視線を落として、またどこかむず痒い気持ちになる。
「・・・ゼミ、あるよ」
「え?」
「俺、サボろうと・・・しただけで、ゼミ、ホントはある・・・」
「何それ、やばいじゃん。行こう、黒川。今からなら何とかギリギリ大丈夫だって」
「・・・え・・・―――」
その握られた手首ごと引っ張られて、染は自分の意図とは無関係にいつの間にか階段を上っていた。鳴瀬の足は確実にゼミの教室に向かっている。染はその背中を見ながら鳴瀬に導かれるまま足を動かして、何故かそれにもう以前のように焦燥することはなかった。何故だろう。
「黒川、これでいい?」
「あ、うん」
目の前に置かれたカフェラテを見ながら、これではまるで友達のようだと思いながら頬を染めて俯いていた。4限まで滞りなく終了した後、鳴瀬に誘われるまま、学校にあることは知っていたが、はじめて出向いたカフェテリアの白い椅子の上で、そうして小さくなって鳴瀬の様子を伺っている。鳴瀬の目の前には染とは違う黒いカップが置かれていて、きっと中身はコーヒーだろう、予想を裏切らずに鳴瀬はそれに何も入れないまま口をつけた。一禾もそういえばコーヒーはブラックで飲む、胃に悪いからといって染のものにはミルクを入れるくせに、自分は苦いのが好きなのだ。向いの席で鳴瀬がコーヒーを飲む姿をぼんやりと目で追っていると、そのあからさまな視線に気付いたのか、鳴瀬は少し恥ずかしそうに笑って首を傾げる。そうすると目尻に皺が寄って、上品な雰囲気が一転して無邪気にも見えるから不思議である。
「なに、あんまり見つめないで欲しいな」
「え、あ・・・御免・・・」
「いや、そうじゃなくて、黒川にそんなに真剣に見られると、ホラ、俺緊張しちゃうからさ」
「・・・きんちょう・・・」
「そう、緊張、ね」
鳴瀬でも緊張することがあるのか、染は言葉の裏に隠された意味を悟ることが出来るほど器用ではなく、ただそれをそれとして受け取って頷いていた。染にとっては緊張しているということがそれこそ日常茶飯で、緩和していることのほうがもしかしたら少ないのかもしれない。しかし緊張する鳴瀬とは何だか友達になれそうな気がすると、考え出す頭は全くお目出度い。それを見ながら鳴瀬は何処か可笑しそうに微笑む。きっと染が意味を良く分かっていないのが、鳴瀬には見て取れたのだろう。
「・・・鳴瀬は・・・ええと、彼女とか居るの」
「え、どうしたの、突然」
手の形をテーブルの下、膝の上で忙しなく変えながら、染は俯いたままそう切り出した。勿論鳴瀬はそういう反応になる。
「えと、こういう・・・話するんじゃない、かな。大学生は・・・」
「・・・」
それは主にキヨから仕入れた情報だったが、染はその時必死にそれに頼るしかなかった。面白くない奴だと思われて、鳴瀬とそれきりになってしまいたくなかった。その為には出来るだけ鳴瀬が興味のある話題で、この空間を満たさなければならない、何の使命感か分からないが、染はその時それだけに突き動かされていた。しかし、キヨの情報が非常に偏ったものだったのが原因だったのか、鳴瀬がそもそも一般大学生の枠から外れていたのか、どちらなのか分からないが、その時鳴瀬は染のその回答にぽかんとして固まってしまった。染はその間にもずっと俯いていたので、鳴瀬の状況に気付くのにかなり時間がかかったけれど、気付いた時にはもう手遅れにも思えた。ここから情報を処理して、的確なカバーをまさか染はその拙い脳味噌で上手く弾き出すことなど不可能で、そんな芸当が出来るものなら友達ひとりふたりと指で数えられなくなっていても可笑しくないのである。結局染はパニックになった思考に完全に支配されて、それにどうと言うことも出来ずに、ひとりではらはらと状況を見守っていることで精一杯だった。鳴瀬はそんな染の様子に、思い出したように噴出すと、俯いてまだ堪えたような笑いを漏らしていた。これは何だか見覚えがあると、鳴瀬の旋毛を見ながら考える。
「・・・な、何なの・・・それ・・・」
「え・・・」
「黒川って・・・ホント変な奴だよね・・・」
「・・・」
「あ、だから悪い意味じゃなくて、喋っていると面白いよ」
だったら友達になってくれるのかな、言いたい唇は、まだ渇いている。
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