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自惚れるな、若者よ Ⅳ

その時知らない男と一緒だった。 「あ、一禾」 「・・・」 嬉しそうに染が立ち上がるのが、ずっと遠くに見えた。何だって人の多いカフェテリアなんかに居るのか、キヨは一体何をしているのか、これはひとつ文句でも言ってやろうと意気込んで向かった先のテーブルで、知らぬ男が染の前にコーヒーのカップを置いて座っていた。思っていた情景とは違うそれに、思わず怯んでしまう。テーブルの上を瞬時にくまなく探したが、そこに何故かいつも側に居るはずのキヨの存在らしきものは欠片ほども落ちていない。それに一禾が眉を顰めるのを、意味の分からない染は不思議そうに見ている。鳴瀬は一向に説明してくれる気配の無いふたりをずっと黙ったまま観察するように眺めていたが、一禾が何も言わないのとその視線がこちらにないことを察知すると、染の袖口をそっとひっぱって、気付いた染の耳に顔を近付けて、その耳元でこそりと一禾には聞こえないように、一体誰なのかと染に問うた。染はそれをまだ座ったままの鳴瀬に合わせるように身を屈めて聞いていたが、ちらりと一禾のほうを伺うように見た。いつもなら此処で笑顔と共に一禾は何とか言うはずだった。それが初対面の人間なら尚更、怪訝な顔などしている暇は一禾にはないはずだ。しかし一禾はそこに立ったまま、何かを考え込んでしまった難しい顔をしている。まさに一禾が考えていることが自分のことだとは思わず、また思えず、染は仕方なく一禾の肩を、余り本人を刺激しないやり方で突いた。 「一禾?」 「・・・あ、なに」 しかし一禾はこちらを見てくれたが、全く鳴瀬に葉興味を示そうとはせず、それとは違うことを延々と考えているような、余り熱のない返事を染に返しただけだった。 「あの、このひと俺の幼馴染で、上月一禾っていう・・・法学部の」 「・・・へぇ、どうも鳴瀬です。宜しく」 仕方なく染のほうが一禾のことを紹介し、一禾はただ黙ってそこに立っていた。いつもとは立場が逆だと染はまだ納得していない表情で、一禾のほうを伺うがそこで一禾はにこりともせずに、自棄に強張った無表情で鳴瀬を見下ろしていた。多分染がそんな顔をしているなんてことがあれば、失礼でしょと後で怒られること請負である。しかし鳴瀬は一禾の仏頂面には全く気にする素振りも見せずに、それに愛想良くにこりと微笑んだ。もしかして友達になるかもしれないその人に、もう少しくらい一禾は気を遣ってくれても良いのにと、酷く残念に思って依然として黙っている一禾をぼんやり見やる。それでなくても平常から、一禾は人に気を遣い過ぎると思うほど遣っている、そんなことで疲れないのかと思うが、それはもう一禾自身の癖みたいなもので、今更改善したり直ったりすることはないらしい。本人もそれはそれである程度、割り切って諦めている。しかしその時の一禾は、それを差し引きしたとしても、とても普段の一禾とは思えないほど険しい表情をしていた。 「・・・一禾、何か・・・怒ってる・・・?」 もしかしたらゼミをサボろうとしたことを、キヨから既に聞いているのかもしれない。しかし遅れるには遅れたものの、あの後鳴瀬に引っ張って貰ってゼミには出席したのだから、染は一禾に怒られるようなことはしていないとただ主張することは出来る。染にはそのように潔白であったのだから、もっと堂々としていれば良いものの、いつもの一禾に怒られているというイメージが先行するせいなのか、その時の染は完全におずおずといった雰囲気で、そうやって真相を探り探り確かめていた。だが一禾はそれにも無反応で、ただ顰め面とも取りようには取れる無表情で、目の前の鳴瀬を見下ろしていた。 「・・・帰ろうか、染ちゃん」 ややあって、一禾はぽつりと誰に言うわけでもなくそう漏らした。どう考えても染に向かっての言葉なのだろうが、その時一禾の視線は染にはなく、ただその言葉は宙に放たれただけのようにも思えたのだった。そこで一禾の声を聞くと、本当に長い時間一禾は喋っていなかったような気がする、そうして唐突と口を開くと、一禾は当然のように本当にそれだけを言ったのだった。それに染が聞き返している暇もなく、一禾は染の二の腕をがっちり掴むと、そのままずるずると染を引き摺るようにしてカフェテリアを横切っていった。それに反論したいし、反抗したいが、怒っている一禾ほど怖いものは染にない。一体なぜ一禾が怒っているのか、怒ることになったのか、染にはまだ分からなかったが、それを自分で考えるのはいつの間にか放棄していた。ただ自分はゼミにも出たし、その後の講義もサボらなかったのだという確固たる自信があったからなのかもしれない。毎度そんなことでばかり叱られていては、それはそういう思考回路にもなってしまうことも否めないが。染は慌てて視界の中どんどん小さくなる鳴瀬に向かって、手を振った。依然そこに座ったまま足を組んでいた鳴瀬は、染のそれと目を合わせると、にこりとやはりひとの良さそうな笑みを浮かべて控え目に手を振り返してくれた。ますます友達らしい、染がそう思って頬を赤くしているのと一禾がカフェテリアの扉を潜って外に出るのは、殆ど同時だった。 「なぁ、何で怒ってんの、一禾」 「・・・別に怒ってないよ」 車のシートベルトをするように促す一禾は、呆れるほどいつもの一禾に戻っていた。染はそれに首を傾げることしか出来ない。いつもの一禾で出来ることなら鳴瀬に会って欲しかった。きっと鳴瀬も一禾のことを気に入るのに、というか一禾が誰かから嫌悪されているという話を聞いたことがない。度々同性は一禾に躊躇いもなく悪態をつくことがあるが、それは彼らが一禾に対して妬んでいるのだということを染は知っている。一禾は同性に妬まれるほど美しい存在であるし、正しい存在であることを、染はそうして時折認識させられどこか誇りに思う。一禾に対してはそうなのに、染はいざ自分がその悪評の標的になると、身を縮めてそこから動かなくなる。まるで本当に彼らが口を揃えて言うことを、それでは肯定しているということに染は中々気付かない。そうして染の遅い理解がつく頃には、彼らも染から興味を失っている。 「じゃぁ何で鳴瀬のこと無視したんだよ」 「・・・あれ誰」 「だから鳴瀬だって、同じゼミの」 「・・・ふーん・・・友達なの?」 「友達・・・かも」 俯いて頬を染める染は、どこか恥ずかしそうに一禾のそれを反芻した。他人の目から見るとやはりあれは友達の雰囲気を醸し出しているのか、そうなのかとそうしてひとりで満足に頷いた。一禾はそれを若干トーンダウンした声とともに、思い出したくもない映像が脳内で再生されるのを、止めることが出来ずにどこかで諦観していた。男は何かと言って、染の耳元に口を寄せていた。それにあんな風にあからさまにひとの良さそうな顔をして、魂胆が見え透いていて逆に笑ってしまうかと思った。昔から自棄に爽やかなのは、胡散臭い証拠だと決まりきっている。あれは一体何だろう、どういうつもりなのだろう、自分に喧嘩を売っているとしか思えない。一禾は目の前を見ながらも、頭では全く別のことを考えていて、赤い舌で下唇をぺろりと舐めた。

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