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自惚れるな、若者よ Ⅴ

「何か一禾さん機嫌悪うない?」 「・・・うん、悪い、あからさまに悪い」 キッチンに立ってこちらに背を向けている一禾には聞こえないように、談話室のテレビの前にいつからか集まって、顔を突き合せて話していることは、そんなことだった。染がそうかなぁと首を捻りながら、一禾のほうを見やった。紅夜と夏衣はふたりが帰って来てから、ずっと神妙そうな顔で一禾を刺激しないように様子をこっそりと伺っている。こちらからではその表情まで読み取ることは不可能だが、一禾の背中からは誰も近付くなというオーラが溢れ出ており、それが肌を刺すほどの鋭さを伴ってこの部屋の中、飽和状態になっている。しかしどうやら染にはそれが分からないらしく、紅夜や夏衣が顔を引き攣らせて言うそれに、先ほどから納得行かない表情で首を捻り続けている。京義はというと、談話室のソファーベッドに寝転がって、そうであることは平常から少なくないのだが、すっかり夢の住人と化しているので、この雰囲気にはきっと気付いていないだろう。 「・・・何かあったん、帰って来るまでに」 「えー・・・別に・・・無いけど・・・」 その時の紅夜の声が若干の諦めを引き摺っていたから、きっとこれは責められているのだと染は思ったが、正直ゼミをサボろうとしたこと以外に、一禾の神経を過敏にさせるようなことはしていない。大体ゼミだってサボろうとしただけで、行為としては未遂に終わったわけだから、こんな風に当てつけのように機嫌を悪くされる謂れは、染にとってはないわけである。曖昧な染の返事を聞きながら、ローテーブルに肘を付いていた夏衣は、ソファーから身を乗り出して、キッチンで作業を続ける一禾のほうをこっそり見やった。その後姿はいつもの一禾そのものであるが、やはり纏っている雰囲気が半端ではない。溜め息を吐いて、夏衣は無理な体勢を元に戻した。大体において一禾は、何か嫌悪すべきことには声を大にする節があり、こんな風に陰湿に苛立ちを振り撒くような人間ではない。余り大声で言わないほうが良いのではないかと、夏衣は一禾が不平を漏らすたびに思ったが、あれはあれでこんなことに比べれば、分かり易くて良かったのかもしれないと自らの行いを反省した。それにしても一禾の様子は可笑しいし、染にはその原因が分からない。これでは手の打ちようもなかった。 「・・・ホントに無いの、染ちゃん」 「無いよ。だって一禾に怒ってるのかって聞いたけど、怒ってないって言ってたし・・・」 俯いたまま染がぼそぼそと喋るのに、一禾の様子を気にしていた紅夜が、勢い良くこちらを振り返る。事の性急さに染は吃驚したのか、それに思わず体をびくりと震わせていた。 「正直に聞いたん・・・」 「えぇ?何だよ・・・」 「・・・まずいでしょ、それは」 「えぇ・・・だから何・・・」 左の夏衣までもが神妙な顔をして、顎の下を指でなぞって俯く。紅夜もそれに同意するかのように頷いて、そして黙り込んでしまった。そんなふたりに挟まれて、染は大体のことに理解が追いつかないのが常だったが、今回も例に漏れずやはりふたりの言っていることが良く分からないで、ふたりに説明を控え目に要求するが、ふたりはふたりで納得しているようで、余計なことは何ひとつ言わなかった。仕方なく染はローテーブルの真ん中で途方に暮れて、がっくりと項垂れた。この様子ではどうも自分が、やはり一禾の機嫌を損ねてしまったらしい。いや、冷静に考えればどう考えてもそうだろう。一禾は学校から帰って来て、すぐに夕食の準備に取り掛かっている。これはいつものことだった。ややあって、その一禾の雰囲気が平常のものとは違うことを器用に察知した紅夜が、向いでクランキーチョコレートを端から噛み砕いていた夏衣の腕を叩いて、今の状況が作り上げられている。やはり一禾の気に触るようなことを、それもいつもの程度ではなく、自分はしてしまったのだと染は項垂れたまま反省した。一禾の醸し出しているらしいその不機嫌な空気を、染はどうにも感知することが出来なかったが、それを紅夜も夏衣も感じているのだったら、それは染の責任である。 染は自身で事にそう決着をつけると、よしと意気込んで立ち上がった。考え込んでいた紅夜がぼんやりとした視線でその染を追いかけ、継いで夏衣も顔を上げる。 「御免、俺一禾に聞いてくるから!」 「・・・いや・・・」 何の使命感か、それに突き動かされた染が、頬を上気させてそう言い拳を作るのに、紅夜は瞬時に勘弁してくれと思い、それを引きとめようとしたが、幾分染のほうが早かった。ひらりと染はソファーを飛び越えて、キッチンに意気揚々と入り込んで行った。よくもまぁあんなに怒気が渦巻いている場所に自ら出向くことが出来るものだと、止めることを諦めた夏衣はソファーからこっそりと染と一禾の様子を伺った。きっと自分なら知らない振りをして精一杯いつも通りに、いやいつも以上に明るく振舞うだろう。触らぬ神に祟り無しとはこのことだと、生唾を飲み込む。きっと状況の最中に居るくせに、それを正確に捉え切れていない染だから出来る芸当である。その夏衣の隣で、制止に失敗してしまったからには、染のそれが好転してくれるのを祈るばかりとなった紅夜が、顔を若干青白くしてふたりの様子をそこから見守っていた。 「なぁ一禾」 「うん?ご飯まだだよ」 聞こえる一禾の声は、勿論怒気など微塵も孕んでいない。だからこそ怖いのだと、何故染は理解出来ないのか、思いながら紅夜は鳥肌の立った二の腕を撫でた。 「俺何かした?したなら御免な、謝るから怒らないで」 それ以上ないストレートな言葉とともに、染は眉尻を下げながら目の前で手を合わせた。それ越しに、一禾の若干驚いたような表情が見えている。暫く一禾は何も言わなかった。駄目かとそろそろと手を降ろした染は、もうどうすることも出来ずに、肩を落としたまま上目遣いで一禾の様子を伺っていた。一禾はいつの間にか無表情になっていて、染のことをじっと見ていた。この視線は一体如何いう意味なのだろうと、染は足りない頭で必死に考える。もっと器用にそういう視線や仕草や、言葉の裏に隠された意味に気付くことが出来れば良いのに、不器用に染は表面を浚うことしか出来なくて、自分でも時々呆れるのだ。 「・・・別に、怒ってないよ」 だからややあって一禾が思い出したようにそう呟いた時には、だから幻聴でも聞こえたのかと思った。言葉を出さずに聞き返すと、一禾は無表情だった顔をすっといつもの微笑に変えて、なぜ一禾がそう言ったのか、本当に分かっていないのだろう、不思議そうな目でこちらを見てくる染の頭をぽんぽんと優しく撫でた。そうなってしまうと、本当にそれはどこからどう見てもいつも通りの一禾で、といっても染は紅夜や夏衣が言うように、その時一禾がいつもとそんなに違うとは思っていなかったのだが、兎に角それは染の良く知っている一禾に戻って、染の目の前で危惧を拭い去ってくれた。 「うん、ちょっと考え事していたんだ、御免ね」 「だよな、だって俺怒られるようなことしてないもん」 自棄に明るい染と一禾のそんなやり取りが、キッチンから聞こえてくる。その唐突さとわざとらしさに眉を顰めながら、紅夜が確かめるように隣で同じように傍観している夏衣を見やると、夏衣もそれを口元に笑みを浮かべながら眺めていた。 「・・・全く、染ちゃんってば鈍いんだから・・・」 「あれで怒ってへんって言われても全然信用出来んわ・・・余計怖い」 「俺達はせめて知らない振りをしてあげよう!」 「何やもう色々バレてる気するけどな・・・」 意気込む夏衣が隣でどこかふざけた調子で続けるのに、紅夜はそう答えながら溜め息を吐いた。染相手ならば兎も角、少し過剰とも思えるほど敏感な一禾相手に、取って付けたような自分たちの振る舞いなんか、それこそわざとらしく見えているのだろう。しかし染があんなに鈍感だと、それの相手を毎度している一禾のストレスが溜まるというのも頷ける。だからといってそれを女性相手に発散させるのもどうと思うが、考えながら紅夜はもう一度溜め息を吐いた。何故かこちらのほうが疲弊してしまっている。

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