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自惚れるな、若者よ Ⅵ

翌日、大講義室にはキヨの姿があった。 「いやー、お陰様で元気になりました」 「良かったー、風邪治ったんだな!」 「御免な、心配かけちゃってさ!」 笑顔で染の頭をぐしぐし撫で回しているキヨだったが、その男が全く風邪で休んでいる友人への気遣いを忘れて自分の心配ばかりしていたという事実は未だ両者の間で伏せられている。 「それよか、お前昨日ちゃんとゼミ出たのかよ」 「うん」 大講義室の後ろから3列目、それの右端が大体この講義を受ける時のふたりの定位置だった。同学年の同学部の生徒は殆ど全員履修しているのではないかと思うほど、この講義は受講生が多い。ふたりがそうして椅子におさまっている間にも、後ろと前の扉は開け放たれており、生徒が常に行き交っている状態であった。そのざわざわの中で、キヨが切り出したのは昨日のゼミのことだった。あの後電話を切って、薬の副作用かすぐに眠ってしまって、次に起きたのがもう夜中だったから、その後のことは明日聞こうと思って電話もメールも控えていたのだった。結局一禾に電話をすることもしなかったし、てっきり染は一禾のお叱りよりも目下の恐怖に勝てなくて逃げ出したのだろうと、失礼にもキヨは踏んでいた。しかしそれは今までにもこんなことは何度かあり、その度に染が目の前のどうにかしなければならない事物から脱走していたという前提の下の根拠ある仮説だった。だが目の前の染はどこか得意そうに、そんなに威張り散らすことでもない、むしろ履修している授業に出ることは当然とも思えるが、それに頷いて見せた。勿論キヨはそれに眉を顰める。どう考えてもこの男が、ひとりでゼミに出席するとは思えない。ここで嘘を吐いても仕方ないのにと思いながら、キヨは長机の上に肘を吐いたまま溜め息を漏らした。 「あ、何だよ。信じてないなー」 「信じられるわけないだろ、良いよ、もう。一禾には言わないでやるから」 「だから、ちゃんと出たって言ってんじゃん」 「あぁ、はいはい。そういうことにしときましょう」 完全に信じていない顔で、キヨが適当にそう流すのを聞いて、染は憤慨せざるを得なかったが、長机の間の廊下を行き交っている男子生徒が、染の声かキヨのかどちらにしろ少しボリュームが大きかったのだろう、何事だと言わんばかりに眉を顰めて睨まれたので、染はそれにそれ以上反論することが出来ず、しゅんと頭を垂れて黙ってしまった。これもそれも仕方が無い、これこそ日頃の行いが悪いから、ということに結局はおさまりがつくのだろうと、染はその時自棄に素直に考えていた。しかしそんなことをループで巡らせていた染の肩が、後方からぽんぽんと叩かれる。鳥肌が立たないということは、女ではない。考えながらそれでも先刻のこともあり、恐る恐る振り返るのに、キヨもそれをゆっくり目で追いかけた。 「おはよう、黒川」 「あ・・・」 そこには鳴瀬が昨日と同じ、爽やかな笑顔で立っていた。しかしキヨは鳴瀬の存在など知らずに、誰という意味を込めた訝しそうな表情を崩すことが出来ない。染はあたふたと何故か立ち上がって、自棄にキラキラとした目で鳴瀬を見ている。鳴瀬はそれに気付いているのか、いないのか、何を確認しているのか、きょろきょろとふたりの周りを見回すと、染の隣の席を指した。 「ここ、良いかな?」 「あ、うん。ど、どうぞ」 「有難う」 そうしてそのまま、染の後ろでぽかんとしているキヨを放置し、染は勝手に返事をすると、机の上に広げていた荷物をばたばたと片付けた。大体こういう時は染のほうが、廊下側に座ることが多かった。長机は5人掛けで大体誰かが座っている場合、心理的に誰もがそこを避けるのだが、この講義は受講生が兎角多い。その為全員が座るためには、5人掛けに5人座る必要に迫られることがある。そういう場合、自分の隣に誰か知らない人が、ましてや女の子が座ろうものなら、染は途端講義どころではなくなってしまう。その配慮から染は廊下側に座り、その隣にキヨが座るというのがふたりの暗黙のルールでもあったのだが、今日は如何したことかそれが珍しく逆転していた。キヨはそこでそれにはじめて気が付いたのだが、男相手にへらへらと笑っている染は、多分未だにその逆転現象には気が回っていない。それにしても一体誰なのだと、染の影からこっそりと男を盗み見る。この講義を受講しているということは、同学年同学部である可能性が高いが、キヨが男の顔を見たのはそれがはじめてだった。それは仕方の無いことである。大学は高校や中学とは違い、学年学部の括りはあるものの、その時間割から生活圏まで殆ど個人別である。染の名前を呼んでいたから、きっと知り合いか何かなのかと思ったが、まず染に大学での知り合いというものがいると聞いた試しがない。そうしてそれは多分、イコールゼロということで相違ない。あからさまな視線をふたりに送り続けていると、それに染ではなく男のほうが気付いて、にこりと微笑まれた。それは何処か一禾を髣髴とさせる微笑だった。だから妙に懐いているのかと、微妙に納得したキヨはそれに会釈する。 「えと、笹倉くん・・・だよね」 「あれ、俺のこと知ってんの?」 「何言ってんだよ。ホラ、一緒のゼミじゃん!鳴瀬!」 「え、あれ。そうだっけ、御免」 何故か染に憤慨され、キヨはそれに一応謝った。そんな心外そうにゼミが一緒と言われても、そのゼミでは染の面倒を見ることに必死なキヨが、他の生徒にまで気を配れるほど器用ではなかったということである。だからその元凶にそんなに威張り散らされる謂れはないはずだが、キヨは思いながらもまたしても得意そうな染を見ながら溜め息を吐く。全く溜め息くらい吐かせて欲しい。 「黒川だって俺のこと知らなかったじゃない」 「え、あ、そう、だけど・・・さ」 「別にもう良いよ、そんなにしゅんとしないで」 「・・・あ、うん、御免」 それに背筋を撫でられたかと思って、キヨは一瞬のことに首を竦めて青くなった。鳴瀬のそれが、同性の友達に向けられたものだとはとても思えなかったからである。しかし染は全く何でもない表情で、別の話をはじめる鳴瀬のほうを向いたまま、それを聞きながら懸命に頷いている。その様子をぼんやりと観察しながら、多少引っかかることがないわけではなかったが、皆が皆そう思っているわけじゃないかと考えを改めて、キヨは一度頭をがしがしと掻いた。こと染に関しては一禾の影響もあるのだろうが、何かと悪い方向へと考えがちである。これは直さなければならないなと思って、キヨはふうと肩の力を抜いた。同級生相手に何を警戒することがあるのだと、自身に言い聞かせるように考える。何だか近くで見る鳴瀬の目は必要以上に優しくて、声は過剰とも思えるほど甘く聞こえる。それに容姿はどこか一禾の雰囲気に似た上品さを兼ね備えた男前であったし、それが染にとっては心地良いのだろう。鳴瀬の話にどこか面白いところでもあったのか、声を上げて笑う染を見ながら、どこか胡散臭い気もするが、染がこれだけ懐いているということは、別段悪い人間でもないのだろう。それにもしかしたら今後良き理解者になってくれるかもしれない、キヨはそんな淡い期待を頭の中に描きながら、ぼんやりと教授が教壇に立つ様を眺めていた。やがてこの雑踏は影を潜めて、そうして講義がはじまろうとしている。

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