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自惚れるな、若者よ Ⅶ

講義もふたつ終われば、昼時だった。学校内にあるコンビニで各々適当に買い込み、その前に設置されたテラスで食べることが多かった。テラスはガラスで外とは仕切られており、中は暖房が付いているのか、随分と温かい。一禾はなぜか高校生二人分の弁当を、朝早くから起きてまで作るくせに自分と染の分は用意しないのが常だった。だから染も昼はコンビニで済ませることが殆どであった。学校の中には勿論学食も設置されていたが、昼時になると確実に賑わいを見せるそこに、出向くほどの勇気が足りないという理由からキヨも付き合わせてしまっている。ただキヨはキヨで特別食べるものに拘りがないのか、それに文句を言ったことがない。そういうわけで、コンビニの簡素なプラスチックに包まれた昼食が並ぶ白いテーブルに、いつもはふたりだったのが、今日は鳴瀬がそのまま同席していた。はじめはどうなものかと思って、キヨも警戒したどこか女の子にでも向けられるべきと思える鳴瀬の振る舞いは、話を聞いているとただの癖のようにも思えた。それを除けば鳴瀬はただの大学生に違いなく、その頃になるとキヨもすっかり鳴瀬という人間に気を許していた。 三人でテーブルを囲んで、話すことは大体教授の怠慢や期限が迫るレポートのことについてである。それは人数が増えても同じことだった。今日も代わり映えのしない話題を熱心に繰り返していると、突然キヨの隣に座っていた染が立ち上がった。キヨにとってそれはいつものことだったので、落ち着いたまま染の視線を目で追うと、丁度テラスに一禾がガラスの扉を潜って入ってくるところだった。兎も角そういう勘だけは鋭いのだ、染は。もっと他のことにその能力を活かすべきだろうなどと溜め息を吐いて思いながら、唐突に立ち上がった染を何事かと珍しそうに、見上げている鳴瀬の肩を突く。 「あれ、一禾っていってさ、染の幼馴染なの」 「へぇ、そういえば昨日も会ったなぁ」 「あぁ、そうなの?ちょっと怖い奴だけどさ、でも別に嫌な奴じゃないから・・・―――」 冗談半分、後は本気だった。一禾とは中学からの付き合いだったが、その年不相応な振る舞いや言動は、はじめて会ったあの頃から全く変わっていない。それどころか最近は酷くなる一方だとキヨは黙ったまま思っている。笑いながら言い終わる前に、キヨはぐいと体を後ろに引かれて言葉を中途半端に切ってしまった。目の前で鳴瀬がぽかんとしている。見上げるとそこに一禾が立っていた。これはもしかしたら、先ほどの現実に忠実な悪口が聞こえたのか。キヨは未だ自分の肩を掴んでいる一禾の手を、上からぽんぽんと弱く叩いて離すように促した。しかし一禾はそれが合図だと知っているはずなのに、何故か離そうとしなかった。ただの冗談のつもりだったが、これはもしかして本気で怒っているのか、しかし一禾はこんな子どもっぽいことで青筋立てるほど短気ではないはずだと考えながら、再度立ったままの一禾を仰ぎ見る。 「どうしたんだよ、一禾」 唐突に染の暢気で間抜けな声が過ぎって、固まった空気を簡単に揺るがせた。キヨの視界の中、その声に一禾はゆっくりといつもの微笑を取り戻した。それに何でもないと尋常ではない力でキヨの肩を掴みながら、一禾はまるで本当に何でもないかのように言った。やっぱり怒っている、これはもう相当に酷く、勘付いて顔色を悪くしたキヨを、何が起こっているのか、今ひとつ掴めていないような不思議そうな顔をして鳴瀬が覗き込んでくる。それに気付くとキヨは瞬時に顔を綻ばせて、椅子から忙しない動作で立ち上がった。そこでようやく一禾がキヨの肩から手を離した。全く如何いうつもりなのか知らないが、そんなに怒ることはないのにと殆ど呆れながら、キヨは一禾の美しい微笑を湛えた横顔を盗み見る。 「ちょっとキヨと話があるから、俺達行くね。染ちゃんはご飯食べてて」 「・・・あー・・・うん」 唐突にまた何を言い出すのだと、キヨは眉を顰める。しかし渇いた唇は反論しようものなら、ひび割れて血が流れるに決まっていた。それに意味が分かっているのかいないのか、曖昧に染が答えるのに一禾は一度手を振った。そうして一禾はキヨに一言も声をかけることなく、こちらに背中を向けると悠然と歩き出した。それに逆らうわけにもいかずに、仕方なくキヨはそれを後から追いかける。一禾が冗談の通じない男だったとは思っていなかったが、それは自分の誤認だったのか。この分ではそう思う他なさそうである。溜め息を吐きながらテラスを出て行く一禾の後に、置いていかれないようについていく。出て行く時にちらりと後方の染の様子を見やると、染はもうきちんと椅子に着席しており、鳴瀬が笑顔で何か話しているのに、興味深そうに目をキラキラさせて聞いていた。こちらにはそして全く注意を向ける様子がない。それに畜生と舌打ちして、なぜ自分は一禾の後を健気とも思える要領で追いかけているのだろう、この先に賞賛や褒辞がないことは知っているのにと、外の冷たい空気に当てられて冷静になった頭は考え出すが、それに勿論答えを導き出すことは出来なかった。その間にも一禾はすたすたとどこに向かっているのか、自棄に素早い足の運びで生徒の間を縫って歩く。一体どこまで行くのか、荷物も昼食もテラスに置きっ放しにしているキヨは不意に不安になった。染も鳴瀬も居るから多分大丈夫かと思うが、余り遠くに行かれても次の講義も控えているわけだから、不満なら何処でも聞くことは出来るはずなのに、困惑していたが畏怖を振り払い、一向に立ち止まる気配の無い一禾の右腕をキヨは後ろから掴んだ。 「一禾!」 「・・・」 「お前、どこまで行く気だよ。つか何、そんなことで怒んなよ、冗談じゃん」 「・・・冗談・・・?」 そうだよ、と反射的に返事をしそうになって、冷気に当てられたのか声が掠れた。俯いたままゆっくりと振り返った一禾の顔には、半分以上影が出来ている。そこには先ほどまでの人の良さそうな微笑は、全く浮かんでいなかった。キヨはそこに畏怖しか感じることが出来ずに、思わず一禾の右手を離していた。それはだらりとまるで一禾の意志は伴っていないかのように落ちて行き、肩の位置と垂直になって止まった。予想以上にこれは激昂していると、これから言われるだろうことを考えると、頭から血が降りていくが分かって、キヨはふらふらと不安定な足元に力を入れてそこに踏ん張った。一禾がここまで憤怒を露にするようなことを、やった覚えのないキヨは、その予想外の怒気に触れてただ、混乱することしか出来なかった。許しを乞おうにも一体何に対して謝れば良いのか、その頃には良く分からなくなっていた。ずっと押し黙っていた一禾がおもむろに顔を上げて、それに付随するかのように顔にかかっていた影が、端から離れていった。 「・・・―――」 それを目で追いながら、キヨは咄嗟に違うと感知した。一禾は怒っているわけではない。怒っている人間は、こんなに寂しい顔をしない。キヨはいつか、いつだったかずっと昔に、一禾のこんな表情を見たことがあると思った。珍しいことだったので、キヨの海馬は確かにそれを認識していたが、それは随分と前の記憶で不鮮明にしか残っていなかった。それはいつのことだったのだろう、どうして一禾はそんな深い寂寥を抱いた目をしているのだろう、していたのだろう。キヨには分からず、依然記憶は明確にはならなかった。ただ分かったことと言えば、怒っているわけではないらしいという事実は、それほどキヨを安堵には導いてくれなかったということくらいである。黙ったまま一禾は不意に、そのミルクティー色の目をきゅっと細くした。確かめるつもりでその奥を見ようとしても、それは透き通って深海にでも続いているようだった。 「冗談なんかじゃないよ、俺は冗談なんかじゃないよ、ずっと」 「・・・え?」 呟かれたキヨの疑問符に、一度一禾は俯いた。そしてここまでのことがまるで錯覚であったかのように、次顔を上げた一禾は何時もの少し不機嫌そうな表情を浮かべて、整然とそこに立っていた。ますます何があったのか分からなくなって、病み上がりのせいなのか、キヨは右手で唐突に痛み出した頭を押えた。 それを知っているのか、知らないのか、一禾は仕切り直すようにふうと小さく溜め息を吐くと、腰に手を当ててついっと周りを一度見回した。それはいつの間にかキヨの良く知っているいつもの一禾に戻っていた。そしてそのまま視線をキヨには戻さないで、その赤い唇を割った。 「・・・ねぇ、あの鳴瀬って奴、誰なの。キヨも知ってるわけ?」 「・・・え・・・いや、何か・・・一緒のゼミだって・・・」 「ふーん、何か凄く胡散臭い感じするんだけど」 「いや、アイツ別に良い奴だよ。お前警戒し過ぎなんだよ」 先ほどまで笑って話をしていたかのように、それは確かに唐突だったが、一方で自然な流れのようにも思えた。いつの間にか痛みも引いている。一体何だったのだと思いながら見上げる一禾の顔は、やはりいつも通り、高い鼻がつんと上を向いている、東洋人らしくない美麗なものだった。

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