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貴方のための傷跡
「ごめんね」
俯いてそれはもう、この世の終わりみたいな声を出すから、きっと自分は酷く甘いのだろうと自覚しているけれど、それ以上何も言うことは出来なくて黙ってしまう。先ほど分かりやすい暴力を伴って自分を責めた腕に抱き締められた体が気持ち悪くても、それを振り払うような冷酷さを自分はどうやら持ち合わせていないらしい。そうなると溜め息を吐くことしか出来ず、もうこんな展開を半ば諦めてしまっているが、どうして謝るくらいならそんなことをするのだろうと、理解がつかなくて困惑しているところもある。しかしそれを直接本人に問い質したことはないのだ。何故か常々疑問に思っているくせに、本当は答えが知りたいくせに、いざ目の前にすると頭がぼんやりしてそれ以上考えられなくなるのだ。だから不安定に寄り掛かられても、その足を踏ん張ってそこに立っていることしか出来ない。これは無力とはどう違うのだろう。
「どうしたの、それ!」
開けた談話室には一禾の姿しかなかった。今まで読んでいた『今日の献立100選』というタイトルの料理本を放り出し、顔色を変えてこちらに駆け寄ってくる。困った京義は足を後退させながら、それに言い訳を考えていたが、その一方では完全に諦めていた。多分一禾は人一倍鋭いから、取ってつけたような言い訳は、すぐに見抜いてしまうだろう。唇を開くと、丁度切れていた左端のほうが自動的に引っ張られてぴりりと痛んだ。思わず京義は眉を顰めて、一禾から目を反らして俯いた。しかし一禾は如実にその顔を心配そうに歪めて、京義の肩を掴むと、強引に自分のほうを向かせる。それに購うことの出来ない体が不安定に揺れて、意志とは真逆に一禾のほうに向き直ることになる。その突き刺すような、問いかけるような視線に耐えられずに、京義は左手で一禾の視線を遮るように顔を覆った。その向こうで一禾の目が一層鋭く光ったのを、そして知らないふりをする。
「・・・ちゃんと見せて、京義」
「いや・・・別にたいしたことないし・・・それより飯を・・・」
「何言ってるの?たいしたことないってどこが?」
口調は穏やかだったが、それは確実に苛立ちを孕んでいた。俯いたまま床を見ながら、降りて来なければ良かったと思ったけれど、それは随分と遅い後悔だった。眠ろうと目を閉じたけれど、空腹に耐え切れずに、腹に取り敢えず何か入れないと、と思って降りて来たのだった。まさか一禾がまだ居るとは思っていなかったが、これはどう考えても自分の判断ミスである。言うことを聞かずに京義が依然として手で顔半分を覆っているのを、一禾はその手首を掴んで殆ど無理に剥がした。視界に入ったのは僅かな赤の破片だったが、近くで見ると京義の顔は本当に酷い様相をしていた。左目の上が真っ青に腫れ上がっており、唇は切れて血が滲んでいる。一禾は呆気に取られたまま言葉なく、しかし一方では冷静にそれをくまなく確認していた。それから弱弱しい力で逃れようとして、京義はどこか居心地が悪そうに、らしくない素振りで視線を泳がせている。
「酷い・・・」
「・・・いや、見た目ほど痛くは・・・」
それに首を振った京義だったが、一禾は顔面を蒼白にして、全くそれを聞いている風ではない。
「・・・どうしたの、これ・・・」
「・・・階段から・・・落ちた・・・寝ぼけて・・・」
「何言ってるの・・・京義・・・」
自分でも確かにと思いながら、京義はその時そう言うしかなかった。一禾の目が怒気を孕んだものから、どこか呆れたものへと変わる。しかしそれは全て心配という感情をベースにしているものだと知っているから、京義はそれから目を反らし続けていた。本当のことを言ったら、一禾は一体どうするのだろうという好奇心がないわけではなかった。しかし、京義はそうして真実を殆ど無意識のうちに隠そうとしている。なぜそうなのか分からない、自分でも良く分からなかった。ただ耳の奥ですすり泣くような声が、依然響いてそれが取れないせいなのかもしれない。随分とそれに支配されている、自分のその甘さというものを殴ってしまいたかった。京義はまだあの部屋の中、自分は中央に立ち尽くしているのではないかと錯覚する。目の前に居るのが、一禾なのか自分を殴った男なのか分からなくなる。手が伸びてきて京義の頬に自棄に優しく触れた。これは一禾の手だった。若干の安堵とそれ以上の焦燥に、いつの間にか襲われる。一禾の眉尻が下がって、指先が触れるか触れないかの位置をゆっくりと滑る。吐き出したらどうなるのだろう、唇を開くと痛みが京義に現実を見せる。
「俺には・・・言えないか」
愁傷を目に滲ませて、一禾はぽつりとそう呟いた。それに心臓を掴まれる。そのまま一禾は手を離すと、京義に背を向けて談話室を横切って行った。そしてソファーの後ろにある本棚の上から、赤い救急箱を取り出す。京義はその場に突っ立ったまま、それに何と答えたら良いのか迷っていた。
「・・・別にそうじゃ・・・ホントに階段から・・・」
「あのね、見れば分かるの。階段から落ちてこんな風になるわけないって」
振り返った一禾は、どこか厳しい目をしていた。救急箱をローテーブルに乗せると、一禾は溜め息を吐きながらソファーに座った。やはり一禾には見抜かれている。考えながら思った、この程度の嘘ならきっと自分でも分かるだろう。それくらい馬鹿馬鹿しい作り話だった。そうはいってもそんなに簡単に言い訳が思いつくようなスキルを、残念ながら京義は備えておらず、その時はそれで精一杯だったのだ。不意に一禾がソファーからこちらに顔を上げた。眉尻は相変わらず下がったままだったが、口元には笑みが浮かんでいる。それをどう解釈すれば良いのか分からずに、京義はまた困惑する。
「こっち来て、手当てくらいさせてくれるでしょう」
「・・・ごめん」
それは聞いたような、絶望的な雰囲気を全く纏っていなかった。同じ言葉でも全然違う意味に聞こえる。一禾は笑ったまま首を振って、それに無言で呼応する。どういう意味なのか分からなかった。ソファーまで行って一禾の隣に座ると、またじっとその目で見つめられて、京義は黙ったまま視線を床に落とした。痛いくらいの視線だった。ややあって一禾の手が伸びてきて、京義の長い前髪を浚う。救急箱の中にでも入っていたのか、それをアメピンで脇に止めると指先は離れていった。自棄に慣れた手つきで、一禾はコットンにオキシドールを染み込ませていく。その消毒液の匂いが鼻を突いて、きっとそれは酷く沁みるのだろうと京義は覚悟した。
「目、閉じて、そう」
「・・・」
「沁みるよ」
一禾の言ったとおりそれは傷口から入り込んで、京義の背徳を内側から突き刺した。思わず口から声が漏れる。一通り終わって目を開けると、一禾が先ほどより穏やかな表情に戻っていた。何よりそれに安堵させられる。唇の端にガーゼが当てられて、白いテープで上から押えられる。てきぱきと一禾は一度なぞったような手付きでそれを済ませると、京義の前髪を止めていたアメピンをそっと抜いた。
「髪で隠していたら目はあんまり目立たないけど、明日眼帯買って来てあげる。学校そのままじゃ行き辛いでしょう」
「・・・ありがとう」
どちらにしろ行き辛いのは余り変わらないが、京義は特別人の目をそこまで気にしたことはなかった。それを一禾はきっと分かっていないのだろう。京義が何ともなしにそれに返事をすると、すっと顔を翳らせてなぜか今度は一禾のほうが俯いてしまった。
「・・・一禾・・・?」
「ごめんね、京義。俺役に立たないかもしれないけど、何かあったら言ってね。ひとりで抱え込むのは止めてね」
「・・・別にそうじゃ・・・―――」
言いながら声が掠れて、我ながら酷い言い訳だと思った。
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