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ブランシュネージュ Ⅰ

その日の朝も随分と厳しい冷え込みの空気が、辺りを静寂とともに支配していた。紅夜が目を覚ましたのは、いつもより30分は早い時間のことで、夜の間に暖房の切れていた部屋の中は、扉の隙間から冷気に侵攻されており、吐いた息が白く残るかと思うような温度で埋め尽くされていた。すっかり冷え切った体を布団の中で丸めて、目を閉じてみたけれど冷気に当てられたのか、その頃になると睡魔は完全に遠ざかってしまっていた。もう一度眠ることを諦めて紅夜は、布団を剥がしてベッドから起き上がった。フローリングの床に裸足で降り立つと、そこがもう完全にこの部屋の何より冷え切っているのを、直接肌が感知する。二の腕を擦って暖めながら、寝間着代わりのシャツを脱いでベッドの上に放った。 (・・・さむ・・・) そこから素早くクローゼットの中からカッターを取り出し、それを着込み、洗濯したばかりのセーターを上から被る。下もスラックスに履き替え、ベルトは学校指定で制服と一括購入だった何の飾り気もない黒いものがそのまま通っているので、前で止めるだけの処理で済む。那岐高校は公立だというのに、やたらと制服には拘りがあるらしい。鞄から靴下に至るまで、一体誰の決定なのか分かったものではないのだが、学校により全て指定されている。しかし紅夜の側を歩く京義や嵐がそれを着けているのを見たことがない上に、それを勿論知っている教師陣が何も言わないことから考えてみても、拘りを持っている割には制服改造には厳しい罰則があるわけではなく、京義や嵐に限らずベルトや鞄は皆割と自分の好きなものを選択している場合が多かった。しかし紅夜はそんな金銭的余裕があるわけでもなく、おしゃれを楽しむゆとりがあるわけでもなく、全て夏衣が購入してくれたらしい指定のもので済ませている。大体制服は夏涼しく、冬暖かいように出来ているものだったが、今日に限ってそうして幾らか着込んでも、部屋の中だというのにまだ寒かった。冬用として夏季のものより幾分か色の濃いネクタイをカッターに通して、クローゼットに頭を突っ込むようにして、奥の鏡にそれを映して確認しながらきっちり結ぶ。冷気のせいで頭ははっきりしていたが、これはただ眠いというより寒いという感覚のほうが勝っているだけなのかもしれない。自然に出た欠伸を噛み殺しながら、自室の奥に設置された洗面所に向かいながら、ふと窓の外を見やった。 「・・・あ・・・」 思わず声が漏れる。外は一面の銀で覆われていた。 「一禾さーん、一禾さーん!」 早朝から起き出している一禾は、その時キッチンに居た。紅夜は一禾が何時頃から起き出しているのか、全く把握していなかったが、いつも紅夜が起きて談話室に出向く頃には、お弁当が自分と京義の分、ふたつちゃんと完成していたから、これはもう完全に早朝としか言えない時間帯から起きているに違いないと、自棄に気合の入ったお弁当に箸をつけながらひとりで思ったものだった。2月も半ばのその頃には、大学生ふたりは逸早く春休みになっていた。勿論一禾も朝早く起きる必要はないわけだし、それを象徴するようにいつもはきちんと時間通りに起きてくる染の生活リズムが、激変するのもその長期の休みのせいだった。しかし染は兎も角平常から忙しそうな一禾を見ていると、折角大学が休みの期間なのだから少しくらいゆとりを持って生活しても、誰も文句は言えないと思う。しかし何故か一禾は今日も早く起きていて、紅夜が興奮したまま階段を駆け下り談話室に滑り込んだ時、並べられた二人分の弁当箱の中に、丁度おかずを詰め込んでいるところだった。 紺色のエプロンをきっちりと身につけていた一禾は、いつもより紅夜が早く降りて来たので吃驚したのだろう。それに紅夜の慌てているとも取れる言動が輪をかけて、一禾は一瞬不味いと思った。何か今日は特別なイベントのある日なのかもしれない、という思いが過ぎる。イベントといってもこの時期の高校生の場合、そんなに楽しい催しではないことは窺い知れる。紅夜と京義の行っている学校柄なのかもしれないが、いつもより30分早く登校して模試だとか、そういうことは平常から良くあることだった。京義は全く頓着ない様子だったが、紅夜は一禾がいつも弁当を作ってくれていることに感謝し、同時に申し訳ないとも思っているらしい。少し早く学校に行くとなった時は、明日は購買で買うからとかそのようなことを逐一一禾に報告していた。しかし、一禾は昨日それを聞いていなかったので、その時紅夜が慌てているとしか思えなかった一禾は、昨日言うのを忘れたのだと思って、まだ半分しか出来ていない弁当のおかずを呆然と眺めることしか出来なかった。何だかんだと言いながらも、結構毎日違うお弁当を作ることを、一禾は楽しんでやっていたのだった。 「紅夜くん、もう行くの!御免、まだ出来てないんだ・・・」 「ちゃう、ちゃうねん!」 何故か自棄にしゅんとする一禾に、紅夜は頬を上気させたままそれに否定を示すために、目の前で手をぶんぶんと振り回した。 「え、それにしても早くない?」 「雪、外雪積もってるで!一禾さん!」 「・・・―――」 何を言い出すのかと思ったら、若干ほっとしながら一禾は溜め息を吐いた。紅夜がやたらと嬉しそうに言ったのは、何でもないただのそんなことだった。思わず一禾は拍子抜けしてしまったのを、全面的に顔に出してしまったが、そんなに雪が珍しいのか、興奮したままの紅夜は全くそれに気付く様子がない。 「なんだ、そんなこと」 「そんなことって何やねん、凄いやん、雪やで?雪!」 「あー、そういや降るみたいなこと言ってたなぁ、どうしよう、今日買い物行くつもりだったのに」 「俺ちょっと外見て来る!」 一禾が全くのローテンションであることに、紅夜は依然勘付く様子を見せずに、入ってきたばかりの談話室の扉から、朝とは思えないほどの威勢の良さで飛び出していった。それを見ながら自分も歳を取ったものだと一禾はしみじみ感じたが、そもそも一禾には雪が降って喜んだという記憶事態がなかった。昔からそういうことに歓喜を感じる子どもではなかった。今考えると紅夜みたいにはしゃいでいるほうが何とも微笑ましい、自分は可愛くない子供だったのだなと一禾はなぜかそこでひとり反省する羽目になっていた。それよりも冷蔵庫の中身がそろそろ乏しくなってきたから今日あたり、休暇になるやいなや引き篭もり生活をエンジョイさせている染を引っ張って、買い物に行くつもりだったが、この雪では道が滑って危ないから外出するのは止めたほうが良いかもしれない。そうすると朝食はもう目処が立っているから良いものの、今日の昼食と夕食は有りもので何とかしなければならない。一禾にとっては降雪よりも何よりも、そちらの方が余程重要事項だった。 「おはよう、一禾ぁ」 キッチンで一禾が腕を組んで、冷蔵庫の中身と自分のレパートリーを照らし合わせながら思案していると、談話室の扉が開き、いつもの時間に夏衣が顔を出した。まだ眠そうな目を擦りながら、欠伸を噛み殺したようなくぐもった声で挨拶され、考えながら一禾もそれにお決まりの言葉を返す。夏衣は余り朝が強いわけではないらしいが、その割にはちゃんと毎日決まった時間に起きて来て、高校生ふたりと一緒に朝食を取ることが多かった。夏衣は何事か日本語ではないような単語を幾つか漏らしながら、ダイニングテーブルの定位置に腰を据えて、肘を突いて揺れそうになる頭をそれで押えた。もう紅夜が外を見て来ると言って飛び出してから随分と経ったような気もするが、一体何をやっているのか、依然帰ってくる様子がない。 「ねぇ、ナツ。雪降ってるんだって、外」 「へー・・・そうなんだー・・・」 「関西圏ってそんなに降らないもんなの?紅夜くんやたらとはしゃいでたけど」 「あぁー・・・どうだろう。でもあの子の住んでたところ南部が多いからかなぁ」 「ふーん」 何となくその言葉尻に、紅夜がどこかに定住していたわけではなかったことを、図らずとも窺い知る結果になった。一禾はそれに何と言ったら良いのか分からず曖昧に答えたが、起き抜けの夏衣にはいつもの俊敏さがなく、それをそれとしてぼんやり受け流しているようだった。炊飯器がご飯の炊き上がりを不意に一禾に告げて、それを開いて人数分、とは言ってもきっと染は昼頃まで眠っているだろうから4人分にすることにして、シェルフから茶碗を取り出し並べる。不意に談話室の扉が開く音がして、京義が起きて来たのかと思って振り返ると、そこには髪に肩に白いものをくっつけた紅夜が満面の笑みで立っていた。 「外、超積もってるで!」 多分睡魔がそれよりも勝っているのだろう、夏衣はそれに適当にしか返事をしない。何だか可哀想だと思いながら、一禾は先ほどよりは興味のあるふりをした。

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