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ブランシュネージュ Ⅱ
外は一面銀色に染まっている。そうして雪に覆われるだけで見慣れた景色のはずのその場所が、見知らぬ土地に迷い込んでしまったような好奇心で紅夜を追い立てる。まだ誰も踏んでいない綺麗なままの雪の上を、紅夜はとても楽しそうに足跡をつけながら歩いていた。それを後ろでぼんやりと見ながら、そんなことにはまるで関心がないらしい京義がゆっくりとした歩調で追いかける。いつも座って待っているバス停までそうして辿り着くと、その屋根の上にもしっかりと雪が積もっているのが見えた。紅夜が隣で忙しなくきょろきょろしているのに、京義は鬱陶しいと思いながらもベンチに座って背凭れに体を預ける。そうするだけで雑踏から簡単に自らを遠ざけることが出来、朝の眠気が勝手に回帰してくる。ひとつ欠伸を噛み殺して首を固定すると、後は規則正しい息を繰り返せばすぐにでも眠ることが出来る。目の前のアスファルトの上も、びっしりと雪で覆われている。これを考慮に入れて考えても、今日はきっとバスが来るまでいつも以上に時間がかかるだろうことは、簡単に想定出来る。ということはここで少し居眠りをしていても、大丈夫だろうという考えの元だった。しかしもともと京義は自分の欲望には忠実で、眠たいと思えば案外何処でも平気に眠った。だから眠たい自分への言い訳は、別段必要なかったのかもしれない。
「なぁ、京義」
「・・・何だよ」
「雪降ると何かテンション上がんなぁ!」
「あ、そ」
こちらは眠いのに良い迷惑と眉を顰めても、紅夜は全くそれに動じることなく頬を綻ばせているだけだった。京義が平常からそういう表情を良くしているせいなのかもしれない。はじめの頃はそれで口を閉じていたはずの紅夜も、段々とそれに慣れてきたのか、最近は特別気にしていないようだった。仕方なく京義は眠たい目を擦って、足を組み換えると目の前の車輪の跡がないアスファルトをぼんやりと眺めていた。こんな光景は昨年も見たような気がする。けれど去年はもっと穏やかだった。紅夜がまだホテルに来る前だったから、京義は比較的口を開かなくてもやっていけていた。京義を取り巻く環境が騒がしさを増したのは、よく考えれば極最近のことなのに、京義はもっとずっと長い間、これに頭を痛めているような錯覚に陥っている。
「何やねん、京義も雪は珍しくない派なん?」
「・・・別に、季節柄降ることもあるだろ」
そもそもそれは派閥などで分類されるべきものなのか、疑問だったが口に出してわざわざ指摘して見せるほどのことではなく、そんなことを考えている間にその行為自体が段々と馬鹿らしくなって止めた。流石の自分でも真夏に雪が降れば、相応に驚いて見せられるしきっと紅夜の期待にも答えられると思うが、この時期のこの気温だ。はじめからここには、雪が降っても可笑しい要因など何ひとつなかった。思って見上げた空は近く、随分と陰鬱な空気を放って灰色に曇り切っている。そして分かっていたことだが、やはり時間通りバスは姿を見せずに、京義は眠ることも出来ないそこで、それに溜め息を吐くしかなかった。
「おはようございまーす」
「はい、おはよう」
目をしょぼしょぼさせながら口の中でもぐもぐとそう挨拶する唯と擦れ違いながら、女の子は短いスカートを翻してくすくす笑う。仕方が無いだろう、眠いものは眠いのだからと思いながら、校門の柱に寄り掛かって唯はひとつ欠伸をした。それにしても不運だった。時折回って来る早朝挨拶要員、登校してくる生徒達を校門に立って迎えるというものだったが、朝はそんなに強いほうではない上に、寒さに滅法弱い唯はセーターの上からコートをしっかり着込んでいたが、それでもまだ冷気は簡単にどこからともなく入り込んで来て、その冷たい手で唯の肌の上を直接撫でるのだった。センターに帰れば暖房もストーブもあるのに、何が悲しくてこんな雪の降る朝にこんなところに立ってただ挨拶せねばならないのか。最近の高校生は挨拶をしないという何かの調査結果から、このような取り組みがはじまったのをこうなっては恨むしかなかった。大体自分は保険医なのだから、こんなことは教職の人間がやれば良いのにと、下唇を噛んでも反論する気にはなれなかった。
「あー、唯ちゃん先生だー」
「あー・・・?」
目の前を通る生徒は、朝とは思えない活発さで挨拶を返すものも居れば、俯いたまま早足で通り過ぎる無言の生徒もいた。唯のほうは特別それを確認したり報告したりする義務がないので、どちらにしても放っておいたが、時折このようにして馴れ馴れしくも名前を呼び、立ち止まる生徒がいる。しかし唯の場合、馴れ馴れしく名前を呼ぶ生徒の数のほうが圧倒的に多いことを未だ本人は気付かない。この登校時間帯、校門は非常に混雑する。一々立ち止まって貰っては困るのだが、ただそこに立たされている唯にしてみれば、どちらにしても余り関係のないことだった。その時は鼻の頭と頬を真っ赤に染めた女の子が3人ほど、保険医の唯が立っているのが珍しいのか、そう声を上げながら近づいて来た。最近の子は最早皆同じにしか見えない唯は、もう年なのかもしれないとそれに挨拶を返しながらぼんやりしながら考えていた。やはりその子たちのスカートも膝上できっちり揃えられており、学校指定のセーターにブレザーだけの格好では些か寒そうにも思えるが、その割には元気そうだった。やはりこの違いは年齢の差なのかもしれないと、朝からげんなりしながら考える。
「お早う御座います」
「あー、おはよう」
「ねぇ、何で唯ちゃん此処に居んの?」
「俺当番なんだよ、ホラもう、さっさと教室行け」
そう冷たくあしらったつもりだったが、何が面白いのか女の子達は目を見合わせながら、互いにくすくす笑い合っている。面倒臭いのでその理由は考えないようにする。どうせ考えても分からぬことに脳と時間を費やすのは、昔から嫌いだった。
「唯ちゃん、寒そうだよねー」
「あ、あたしカイロ持ってるからあげよっか」
寒そうなのはお前達のほうだと思ったが、口には出さなかった。右端に居たショートカットの女の子がふと思いついたようにブレザーのポケットを探り、そこからカイロを取り出すと、唯が既に手を突っ込んでいるコートのポケットに殆ど無理に捻じ込んだ。呆れて摘み出したが何のことはなく、それが以外にも温かかったので、正直返すのも惜しく両手で擦って暖を取る。
「教室入ったら温かいもん。唯ちゃんまだここに居るんでしょ」
「・・・それじゃ有り難く頂くよ」
溜め息を吐きながら、それを左のポケットに戻す。確かにもう暖房が利いているだろう教室は、暖かい空気に満ちているのだろう。それに引き換え流石に付けっ放しで出てくるわけには行かなかったセンターの中は、まだ薄暗く冷ややかなままなのだろう事を想像して、唯はひとりで肩を落とした。あっさり唯がカイロを受け取ったことにそんなに吃驚したのか、なぜか女の子達はやたらと色めき立った。
「唯ちゃん、じゃあ私マフラー貸してあげる!」
「は・・・?」
「良いの!全然寒くないからね!」
そこが問題ではないのだがと思ったが、起き抜けのせいで頭が回っていないのか、瞬時には反応出来なかった。女の子は言うが早いか決心したように、するすると首から赤いチェックのマフラーを外すと、目一杯背伸びをして唯の首にそれを一度巻き付けた。離れてそれを確認した後満足するように女子生徒は一度頷くと、にこりと自棄に嬉しそうに微笑むのでそれを外して突き返すのも憚られる。如何しようか、唯が迷っている間に女の子達はやりたい放題やって、それでもう充足したのか、手を振って校門を潜ると顔をくっ付けあって何か楽しそうに笑いながら、唯をそこに放置するとさっさと行ってしまった。いつの間にか図らずともシックな黒のコートに可愛らしい赤いマフラーという完全にアンバランスな外見になってしまった唯は、それを追いかけることも出来ずにカイロは兎も角マフラーは返さないといけないから、あの子は一体何と言う名前だったか、せめて学年とクラスだけでも分かれば良いのにと思いながら、全く思い出すことが出来ないでいた。仕方なく左ポケットに突っ込んだカイロで暖を取りつつ、目の前を過ぎって行く生徒達に好機の視線を向けられながらも、めげずに挨拶し続けた。それよりも何よりも、マフラーを巻くだけで意外に暖かいという事実が、唯には分かっただけだった。
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