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ブランシュネージュ Ⅲ
結局良いのか悪いのか京義の予測通り、大幅にバスは遅れることになったが、何とか遅刻にはならないで、紅夜は学校まで辿り着いていた。しかしこの悪天候、電車が止まったところも何箇所かあったらしい。進学校と銘打たれた那岐高校は割りと遠いところから通っている生徒も多いためか、殆どギリギリの時間に教室に滑り込んだ割に、ホームルームのはじまる気配はなく、教室の中の生徒の数もいつもより心持ち少ない気がする。皆普段なら時間通りきちんと着席しているはずだったが、雪が降っているという高揚感も若干あるのだろう、休み時間のように立ち歩いている生徒も居れば、方々で仲の良い人間で集まって、何やら楽しそうに話しているクラスメイトの姿もあった。それを叱りつける役割の担任ももしかしたら交通規制に巻き込まれたのか、姿が見えない。紅夜はそんな連休後の登校日のように浮き足立っているクラスメイトの間を縫って、自分の机まで辿り着くと、朝からはしゃぎ過ぎたせいか、校門まで走ったせいなのか、少し疲れてしまった体の力を肩から抜いた。来るまでに少し濡れてしまった鞄を開き、そこから今日の時間割通りに並べた教科書類をそのまま机に突っ込む。
「紅夜ー」
自棄に間延びした声で名前を呼ばれるのと同時に、後ろからぽんぽんと肩を叩かれて、振り返ると嵐が居た。目が合うとなぜかそれに含み笑いを浮かべる嵐は、その表情のまま自棄に素早い動作で、紅夜の前の席の椅子に勝手に座り込んだ。
「おはよう」
「おはよ、あのさー、校門のところにまだ唯ちゃん居た?」
「唯ちゃん?」
なぜそこでセンターの管理人の名前が出てくるのか、不思議に思いながら紅夜は首を捻った。嵐は何かと用事をつけては殆どの生徒には保健室と同様の扱いをされている、正式名称は一応健康管理センターという仰々しいものだったが、そこに出向いている。そしてその用事の大半が実にどうでも良いことだった。しかしそれをそれとして享受しているらしい保険医だって、教育には全くの素人で微塵の興味もない医者なのだから仕方がないのかもしれない。京義が音楽室で眠ったりピアノを弾いたりするのと同じくらい、嵐はセンターに出向いてそこを管理している医者らしい人間、殆どの生徒が唯ちゃんと親しみを込めて呼ぶ割には、余り人当たりの良くない保険医と何でもない話をしているらしい。あの不快と無表情のどちらかしか表情の無い男の話は、比較的嵐の口から出るが、その度に紅夜はそれを聞きながら、一方でぼんやりと考えている。唯とは確かにどこかで会ったことがあるような気がするのだ。しかしそれを本人にはばっさりと否定され、未だに思い出せない辺りただの勘違いなのかもしれないが、何となく唯の話題が出るたびに、もやもやと思い出すのだった。
「いや、いいひんかったで。何なん」
「何だ、もう戻ってたんだ」
がっかりしたように嵐は肩を落としたが、次の瞬間にはまたその目に輝きを取り戻し、少しだけ首を伸ばして辺りの様子をきょろきょろ伺った。一体何を警戒しているのか、話の読めない紅夜はきょとんとして待っている。嵐は何も乗っていない紅夜の机の上に腕を乗せて身を屈めると、少し声を潜めた。
「いやぁさ、今日唯ちゃん変なカッコだったの。黒のコートに赤のチェックのマフラーだぜ?」
「へー・・・そらえらい可愛らしい・・・」
「だろ?で、何でそんなカッコなんだよって聞いたらさ、女の子が貸してくれたって言ってたんだけどさ」
「へぇ・・・」
不在の椅子の上を完全に陣取っていた嵐は含み笑いを顔に貼り付けたまま、どこか声を潜めながら言った。その女の子を特定するには至らなくて、もしかしたらウチのクラスかもしれないから、というのがその主な理由である。そんなものを唯が大人しく受け取るとは思えなかったが、この分ではどうやら案外押しに弱いのかもしれない。いつも唯はアイロンのきちんとかかっているシャツにセンスの良いネクタイを巻きつけ、その上から医者らしい白衣を羽織っている。大人っぽい風貌に落ち着いた物腰は、高校生には残念ながら備わっていない。かといって唯ほど若く魅力的な教師がこの学校に居るわけでもない。必然的に女の子の憧れが、そこに集中するのも分かる気がする。それに何より、唯は鼻筋の通った美しい容姿をしている。もうこうなれば誰も文句を言うことはないのだろう。本人がどれだけをそれを自覚しているか如何かというのも問題ではあるが。唯の言動は逐一否定的だったが、それは自分たちを生徒や子どもとして見ている教師陣とは一線を画しているものがあって、きっとそれも女の子達の間では結局はプラスに転換されているのだろう。
「唯ちゃんカッコええもんな」
「そうか?まぁまぁ、ってとこじゃね。医者っていうところがさ、プラスでようやく人並み以上って感じ」
「・・・お前は何様やねん・・・」
あれだけ懐いている割に、嵐の評価は自分を完全に棚に上げた厳しいものだった。考えながら溜め息を吐く、確かにホテルの面子と比べれば、唯は普通クラスなのかもしれないが、あれくらいが丁度良いのではと思いながら、紅夜は自分も負けずに失礼なことを考えているということに気付かない。大体ホテルの面子を平均に持ってくるというところが、まず大幅に間違っている。
「だってそうじゃね、唯ちゃんまぁカッコ良いけどさ、なんかちょっと惜しいんだよな、どこがとかじゃないんだけど」
「・・・だからなぁ・・・」
「ホラ、夏衣さんとかと比べると全然じゃん!」
「・・・何でそこでナツさんが出てくんねん・・・」
もう一度溜め息を吐いて、紅夜は肘を突いた。
「だって、夏衣さん超美人じゃん。カッコ良いって言うより、美人系だよな」
「・・・そうなん、っていうか何やねん、そのカテゴライズは」
やたらと目をキラキラさせて言う嵐に、げんなりしながら紅夜はそう言い返すことしか出来なかった。やはりこの友人を不用意にホテルに招いたりするべきではなかったのだ。それは完全に友達だとか心配だとか、そんな言葉に舞い上がってしまった自分の失態ではあるが。それもこれも仕方がない。そんなことを本気で、言われたことなど今まで一度もなかった。だからそれに感動して、思わず嵐の言うように計らってしまった。今となってはその真意が一体どこにあるのか分からないが、紅夜はそれでもそれが少しでも本気だったら良いのにと考えることがある。それを嵐に確かめれば、少し怒って窘めてくれることは分かっている。だからこそ、紅夜はそれに知らないふりをしてその手段を選ばないようにしている。どこか遠くを見るように目を細めて、急に黙り込んだ紅夜にようやく気付いたのか、嵐は虹彩の光を静めてこちらを見やった。
「オイ、如何したんだよ、紅夜」
「・・・別に、でも俺それやったら染さんが一番綺麗やと思うけど」
「あぁ、あの、あんまり喋らなかった」
「うん、そう」
「まぁ、でも・・・それが順当だろうな。でも俺、ちょっと怖かったけど、あの人」
「何でやねん、染さんなんか無力もええとこやで」
褒めたり貶したり忙しい紅夜の前で、嵐はおもむろに眉間に皺を寄せる。
「だってちょっと、ホント生きてんの・・・?って感じだったし」
「まぁな、結構あれで頑張って生きてるで」
それが果たしてフォローになっているのかどうか、しかし案外にも染の現状を上手く言葉で示すとそうなるだろう事は、染を知っている人間ならば理解出来ることだろう。言いながら自分でもおかしくなって笑いながら紅夜は、そっと雪の降り続く窓の外を見やった。学校に着くころに朝からどんよりと曇っていた空からぱらぱらとまた雪が降って来て、一層空気は冷たさを増した気がしていた。部屋の中が温かいせいで窓はすっかり曇ってしまっているが、それでもそこには何人もの生徒が張り付いて、何をするわけでもなく手持ち無沙汰に外をぼんやりと眺めている。まだ来ていない友達に気をやっているのか、それとも悪天候を案じているのか、背中だけでは良く分からない。ただホームルームのはじまる時間はすっかり過ぎているというのに、教室の中は依然騒がしいままで担任教師の姿もなく、いつの間にかすっかりそこは無法地帯と化してしまっていた。
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