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ブランシュネージュ Ⅳ
雪は相変わらず降り続いている。もしかしたらこの分では、早朝よりもむしろ気温は下がってきているのかもしれない。朝のショートホームルームどころか、1限目の数学教師が学校の来ていないという理由で、朝から紅夜のクラスは幸運にも自習となっていた。進学校らしい真剣さでいつもは不可思議なまでの静けさが保たれているそこに、今日は珍しく参考書と問題集を広げて勉強している人間が半分、後は窓か好き勝手な場所に集まって、小声で話し続けている。雪が降って皆少々浮かれているのだろうと、紅夜はシャープペンシルを右手で器用に回しながら思った。起きた時一禾も夏衣も降雪についての反応が微妙だったが、それはここが東京だからという理由ではどうやらないらしい。そのことに気付いて、半ばほっとしている。それにしても暖房のついている教室でも指はかじかんでいるし、いつもより少し煩いだけで随分耳障りなノイズに誤魔化されて、紅夜は時折ページを捲る手を止めて、代わりに机の上に肘を突いて外を眺めていた。
「あー、誰か雪合戦してる」
ふと窓の側に居たクラスメイトの山下がぽつりと呟いた。
「あ、ホントだ。あれB組じゃね、あいつらも自習なんかな」
隣に居た原田がそれに相槌を打ち、そのままだらりと転落防止用の柵に凭れた。週に一度しかない体育の時間のために用意されたグラウンドはただ広いぱっかりで、その右奥にはテニスコートまで完備されている割に、それを授業で使用したことはまだなかった。この雪でグラウンドは勿論真っ白に染まっており、そこに足跡をつけることを考えるとそれだけでぞくぞくした。きっと同じようなことを考えていた人間が、どこか別のクラスにも居たのだろう。グラウンドには男子生徒の姿があり、二手に分かれて声までは聞こえなかったが、楽しそうに雪をぶつけ合っているようだった。それを見ながらどこかはしゃいだ声を上げている窓際のふたりが、些か大き過ぎる声を出していたからなのだろう。参考書を捲っていた生徒もちらりと窓のほうに視線をやる。すると教室中央の椅子が突然引かれて、女の子が一人立ち上がった。
「ちょっと、静かにしてよ」
「あ、御免」
責任感の強い委員長の川島が、あっさり謝った山下を一瞥すると気が済んだのか、後は何も言わずにそれだけで着席した。注意された山下は別段それに何とも思っていない風に、またふいっと窓の外に目を向ける。クラスの秩序とはこのようにして守られている、その縮図を見ているようであった。すると隣でそれを見ていた原田が、山下の腕を後ろから引っ張った。
「なぁ、俺らも行かね。混ぜて貰おうぜ」
「お、良いじゃん、行こ、行こ」
その原田の声に触発されたのか、突如として教室の雰囲気が変わったのに、紅夜も問題を解く手を一旦休めて、何をやっているのか騒がしいふたりの様子を見やった。多分原田にとってみれば、この状況は願ってもないだろう。殆どそのためにわざと大声を上げたのだった。窓際で喋っていたはずのふたりは、そうして紅夜が異変に気付いた時、もう既にそこから離れていた。それに誰が口を開くよりも早く、委員長の川島がまた立ち上がってふたりの進行を妨げるようにして、いつの間にか立ち塞がっていた。
「ちょっと、どこ行くのよ。今は自習の時間なのよ」
「まぁ、良いじゃん。折角雪も降ってんだしさ」
「そうそう、あ、小山も行こうぜー」
「ちょっと待ちなさいよ!」
あっさりと川島の側をすり抜けたふたりは、実に飄々とした態度のまま、いつもつるんでいるまだ座っていた小山に後ろからそう声をかけると、暖房の利き切った教室から全くの未練を感じさせないやり方で、颯爽と出て行ってしまった。慌てて川島がそれを追いかけるが、教室の外に出て行くわけにもいかずに、ふたりの開けた扉を掴んで悔しそうにしているだけだった。
「俺もいこ」
「じゃぁ、俺もー。藤崎も行かねぇ?」
「待てよ、斉藤。俺も行くからー」
それを皮切りにして、皆どこかしらそういう気持ちがないわけではなかったのだろう。教室のあちこちで、男子生徒が立ち上がりはじめた。
「ちょっと!だから今は自習なんだってば!」
「良いじゃん、ちょっとぐらい」
「委員長、固いってマジで」
1限目が自習といっても学校に居る教師が交互に教室には見回りにやって来ていたし、きっと2限目は学校側もそれなりのプライドを見せて、何が何でも授業をやるだろう。そのことを多分危惧しているだろう川島が、必死でそれを引き止めようとするのを、全く気にせずに男子生徒は次々と廊下に飛び出していく。紅夜がそれをぼんやり目で追っていると、その視界にふいと嵐が顔を覗かせた。目が合うと嵐は満面の笑みを浮かべる。考えていることが手に取るように浮かぶなと、苦笑しながら思っていると、突然紅夜の名前が呼ばれた。びくりと体が反応して、しかし紅夜が声のしたほうを見やるよりも早く、目の前で嵐がそれを確認していた。
「相原くん!」
そこには顔を真っ赤にした川島が立っていた。
「え・・・な、何やろ・・・」
「ごちゃごちゃ言われる前に、行こうぜ」
分かり易く舌打ちをして顔を顰める嵐に腕を引っ張られて一応立ち上がったが、一生懸命それを防ごうとしている川島を見ていると、そのままそれを放置して出て行くのも何だか憚れる気がした。きっと嵐はそんな紅夜の心中はお見通しなのだろう。紅夜の意見を聞く前に、かなり強引にそのまま紅夜を引っ張って行った。兎角見た目で判断され易い嵐の前まで来て、川島は少し怯んだ様子で顔を背ける。流石に進学校には珍しい種類の、余りにも分かり易い不良である嵐の目の前で言い淀んでいるようだった。それもきっと嵐は熟知しているのだろう。目の前まで来て何も言わない川島の横をまるで彼女など見えていないかのように、擦り抜ける。女の子相手に一体何をやっているのだと、紅夜はその後方で引っ張られながら溜め息を吐いた。
「相原くんも行くわけ?」
「や・・・うーん・・・」
「オイ、紅夜」
煮え切らない紅夜の腕を引っ張る嵐だったが、それに負けない迫力が川島にもあった。そんな双方に挟まれて、一体どうするべきかと考えていると、後ろからぽんぽんと肩を叩かれた。振り返るとそこには、紅夜とは其れほど親しい間柄でもない武内が立っていた。
「行こうぜ、相原も」
言われるままそれに頷いて、紅夜は足を踏み出していた。嵐の手もそれと同時に自然と側を離れる。武内はそんなふたりをそこに残したまま、自分だけさっさと教室の扉を開けて出て行った。
「御免なぁ・・・川島さん・・・」
相原くんは違うよね、という川島の目を直視出来ずに、紅夜はそこから目を反らしながら小声でそう謝った。だってどう考えてみても、今日は教室に篭って勉強などに精を出している場合ではない。それに大体、そんなことはいつもやっているし、いつも出来ることなのだ。廊下を走る嵐を追いかけながら、ちらりと教室を振り返ると、そこからまた新にクラスメイトが飛び出してくるところだった。
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